東京訴訟第4回口頭弁論 大森克剛さんの証言
(1) 県立広島工業学校本科機械科に在学中の私は、2年生になると同時に海田市の日本製鋼所に配属され、さらに広島市西蟹屋町の元東洋紡績工場に移されました。広島駅から徒歩5分くらいの所にある工場で、午前中勤務の命令を受けていました。
あの日、8月6日は月曜日で工場は電力不足のため休日でした。そのため、幸運にも直接被爆は逃れましたが、翌日朝、広島市へ入りました。
工場に着いてみると其処には阿鼻叫喚の地獄絵図が待ち構えていました。でも、一体何をしたらいいのかただおろおろするばかりで、今まで叩き込まれた少年兵の教練は何の役にも立ちませんでした。それでも、私と同じく直爆を逃れた同僚たち10数人で知恵を出しあい、市内に住む同僚・恩師の安否の情報集めや、千田町の本校へ現状報告して今後の指示を受けに行こうなどと、班に分かれて出発しました。
瓦礫の中を歩くのは容易ではありませんでした。さらに、地面からは熱が跳ね返り、死者を焼く黒煙が空一面を覆い、その向こうから差し込んでくる真夏の暑さは鼻腔や口の中をからからにしました。飛び出している水道管から滴る茶色の熱い水を求めても、吹き出る汗とともに体力は次第に消耗し、私は市の中心部八丁堀まで来て遂にダウン。一緒にいた同僚たちも解散して、這うように広島駅まで引き返しました。
(2) 江田島の秋月の自宅に辿り着いてから、しばらくの間毎日激しい下痢に悩まされました。その後も歯茎からの出血は止まらず、40代前半に上の歯全部と下の歯殆どを抜くまで出血は続きました。始めの頃は、出血の原因を深く考えたこともなく、ただ漠然と「歯ブラシの毛が固いせいだ」と思っている程度でした。でもいつまでたっても治りません。「歯茎の出血はそんな単純なものではなく、もしかしたら、あの時うろつき回ったヒロシマがこの身体の中に棲み続けているせいかもしれない」と思うようになりました。
結婚後もこの不安が常に頭をよぎり、子どもを作ることに大きなためらいを感じました。現在私には長男と次男がいますが、これは散々悩み続けた挙げ句ようやく決心してのことです。子どもたちが生まれた後も、遊びで作った切り傷やかすり傷に驚く妻の悲鳴を聞く度に、私は「もしかしたら子どもの血もこのまま止まらないのではないか」、「骨に異常があるのではないか」、「脳細胞が犯されているのではないか」と気にならざるを得ませんでした。そしてその度に、眠っていた原子爆弾の恐怖と悲惨さがぞろ起きてきて、次第に断崖に立つ自分を意識するようになりました。
(3) つい最近になって、その不安は現実となって続けざまに襲いかかってきました。まず、1993年に両手の指10本全てがいびつに曲がり、医者に診せても原因不明だと言われました。入院して手術を受け、どうにか動くようになりましたが、それまで40年間、仕事として続けていたピアノ演奏は不可能となりました。そして、仕事を断念しかろうじて国民年金で生活を始めましたが、1999年に肛門から10センチくらいの所にガンが発見されました。直腸ガンです。
ガンの手術が失敗するのではないかという不安と、生涯人工肛門になるのは嫌だという怖さ。「被爆したこの身体だから好きなようにしてください」と医者に言いつつ、治りたいという気持ちで一杯でした。手術は成功し、数カ月人工肛門を付けるだけで、後で元に戻してもらえることになり、ほっとしたのも束の間、まさかこれからが妻に大変な作業を強いることになるとは思っても見ませんでした。
2000年7月に左下腹部に人工肛門を設置しました。退院後の自宅療養に備えて、妻がその処置の特訓を毎日受けました。お腹からぱっくり飛び出したイソギンチャク状のS腸と直腸2個の突起物に、ストーマという器具をかぶせるのですが、患部の腸のサイズは毎日変わるため、それに合わせてセロハンに転写し、器具の取り付け口の大きさを調整する必要があります。でもそれは、妻にとって想像以上の過酷と苦痛をともなっていました。始めの頃は患部を見ただけで失神しかかり、或いは嘔吐をもよおし、その度に「奥さん、しっかりして!」という看護婦の叱咤が飛びました。患部をセロハンに転写しようにも、その手がぶるぶる震えて止まりません。涙と汗が私のお腹の上に滴り落ち、目を閉じた私もまた、流れる涙をそっと拭く毎日でした。結婚してから今日まで私が被爆者とは知らないまま40年間尽くしてくれた妻。その妻に、私が被爆者であるためにさらに迷惑をかけるのはとても耐えられませんでした。
ところが、さらなる病気が私を襲いました。2000年9月、今度は胃にガンがあることが分かりました。しかも直腸ガンの転移ではなく、全く別の新しいガンです。やっと病気から解放されたと思った直後で、それこそ断崖から突き落とされる気持ちでした。再び入院せざるを得ず、また45日禁食も始まりました。手術により胃の半分を切除し、その後は食事量や食事時間の制限を受けました。これは現在でも続いています。
これからもまた新たなガンが見つかる。原爆の放射能の影響を受けた身体、そしてこの身体からガンが2つも見つかっている事実からすれば、そう思わずにはいられません。
(4) 私は日本政府の決めた法律を忠実に守ってまいりました。
聖戦の名のもとに軍需工場で高射機関銃の弾づくりにも専念してまいりました。それなのに、あの世にも恐ろしい原子爆弾の洗礼を受け、今なお、妻や子どもや孫たちを巻き添えにした潜在被爆という悪魔の恐怖にさいなまれています。
孫が小学校に進学したときに言いました。
「おじいちゃん、日本は戦争したことあるの?」
あまりにも平和な日本とはいえ、まかり間違えばいつまたこのかわいい孫が地獄に引きずり込まれるかもしれません。二度と同じ過ちを犯さないためにも、戦争により、原子爆弾により苦しみ続けている私たち被爆者に対して、日本政府は責任をとるべきです。私たちはこの裁判に最後の命をかけています。