被爆者相談所および法人事務所
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東京訴訟第5回口頭弁論 平井園子さんの証言

(1) 私は、2004年1月28日に提訴した第三次の原告の平井園子です。

(2) 当時8歳だった私は、父母と兄、姉、妹の6人家族で、広島市東胡町に住んでいました。
 その頃、戦況がますます厳しくなったため区画整理が始まり、私の通っていた幟町国民小学校も軍の宿舎になりました。
 父は、私に勉強させるため、郊外の牛田町の離家を借り、その近くの安楽寺に行かせることにしました。
 通い始めて2日目の8月6日午前8時15分、私は爆心地から約2キロの神田橋のたもとの安楽寺で被爆しました。
 青白い丸い光線をたくさん見て、次に気が付くと上の方に小さな灯りが見えました。生き埋めになっていたようです。必死に登っていくと、見知らぬ人が助てくれました。
 上に登ると、この世とは思えない状態で、人が、人間が、歩いていきました。血と火傷で髪の毛のなくなったおばさんが、血が噴き出ている私のことを心配して、頭や顔の血を拭ってくれ、履き物を探して履かせてくれました。
 皆について神田橋を渡り、爆心地に向かって白島方向に逃げて来ましたが、白島の先ははどこも火の海でした。
 「もとへ戻れー!」「もとの橋へ戻れー!」と男の人たちが叫んでいました。戻った神田橋付近は、もう火が回ってきていました。大人のうしろについて夢中で逃げました。

(3) そして、気が付いたのは、山の畑の柿の木の下でした。雨がぽつぽつ降って来て、その雨に打たれて意識が戻ったのでしょうか。
 痛みのためか、恐怖のためか、放心状態となって座っていると子どもを捜す親の声が、親を捜す子の声が、遠くなったり近くなったりして聞こえてきました。
 夕暮れがきて、あたりが暗くなりかけたとき、私に奇跡が起きました。私を捜す父の声です。父の背に負われて泣きました。その後の記憶はありませんが、父も背に火傷を負っていました。
 今、考えると「よく会えたものだ…」と思います。

(4) 左頭部動脈の切断による出血と、顔の傷の出血がなかなか止まらないので8月8日、父は病院を探しにいきました。8月9日、黒焦げに焼けた黒い死体、傷らけの血に染まった赤い死体、青白い膨らんだ死体のある中を野戦病院に行きました。
 戸板の上に浴衣を広げて敷き、麻酔なしで手術を受けました。気を失うほどのこの痛さが、想像できますか。

(5) その後、東胡町はもとより広島中が全焼してしまったため、私たち家族は、大竹に移転しました。あまりに出血が多かったため、顔と唇の色が同じになり、体調が良くないので休学しました。
 1946年3月には、広島県大竹国立病院で体内に残るガラス片の摘出手術をしました。

二 その後の状況について

(1) 1955年6月、肺結核にかかり3年間療養し、さらに1961年10月には肺結核が再発しました。1962年2月には、広島市民病院で結核性腸閉塞の手術を受けました。1963年2月には、肺結核のため右肺中葉及び下葉の摘出手術を受けました。
 現在は、造血機能障害(血小板4.6)、C型肝炎、肝硬変、慢性硬膜下血腫を患っています。

(2) 2001年2月癌センターに入院し検査の結果、子宮体部ガンと診断されました。
 その際、C型肝炎のため癌の治療薬は飲めませんでした。また、「血小板が少ないので、手術もできない。放射線治療しかない。それができないなら、あと三ヶ月」と医者から言われました。
 私は、「これも運命」と退院し、身の回りの整理を始めました。
 ところが、2001年4月、ホームドクターから勧められた病院に行くと「すぐに手術としましょう。」と血小板の輸血をしながら手術する道を探り当ててくれ、手術を行い助けて下さいました。

(1) 1999年、体調が悪く働けなくなった私は、健康管理手当をもらい始めました。しかし、前述の癌の手術後、これをストップされてしまいました。
 理由を聞くため、厚生省の被爆対策の担当に電話すると「放射線との因果関係がないからだ」という不誠実な言葉で説明されました。
 この言葉で私は苦しい中を一生懸命生きてきたことを、全て否定された思いで一杯になりました。私は体調が一層悪くなり、「もういい、死のう……」と思いました。被爆後、59年の私の人生は何だったのでしょうか。

(2) 小学校2年生8歳のとき、休学して病床についているとき、いろいろ話す声が聞こえました。
 「今日は、○ちゃんが死んじゃった。」「ピカドンがうつるけん、○○ちゃんは納屋に入れられた。」という話。
 そして、お産婆さんは「ピカドンにあうと肉の固まりのような変な子どもが生まれる。かわいそうでやせ細った母親には見せられない。姑の手前もね…。私が全部背負って、地獄へ行く……。」と言っておられました。
 そのうち、耐えられない人たちの自殺が増えました。

(3) 1946年4月、1年遅れて小学2年に復学しました。すると、他の被爆者の同級生に対して、他の子が「ピカドンがうつるー」と言って逃げていくのです。ショックでした。そして、私は、その後ろについて逃げました。その日から私は、「隠れ被爆者」となりました。だから、今もって同級生も私が被爆者だということを知りません。

(4) 現在のように精神的カウンセリングがあるわけでもなく、今日までフラッシュバックに苦しめられながらの毎日でした。60年が経とうというのに、まだトラウマに悩ませられるのです。
 病院で被爆者とわかると「うつる」と看護婦さんに嫌われた時期もありました。原爆は、新兵器で得体の知れないものだったのです。

(5) 被爆者手帳が交付されたとき、父が「なるべく結婚の障害にならないように」と、私の被爆地点を遠く爆心地から2.3キロとしました。しかし、嫁ぎ先では、「被爆者だから子どもが出来ない。」と言われ、4年目に身ごもると「『カタワ』を生むな。」と言われ、心身ともに疲れ果ててしまいました。
 ビルの窓から下を見ると「あそこに降りたい。降りたらどんなに楽になれるだろう。」と思います。ふわーっと飛べるような気がするのです。

(6) 医学もずいぶん変わりました。研ぎ石で注射針を研いでいた頃もありました。私は、いったい何千本注射を打ったのでしょう。もう手の血管は潰れています。
 現在、造血機能障害で血小板も少なく、止血剤を飲んでいますが、鼻血が止まらず、口の中に流れてきます。また、怪我をすると血が止まりません。

 世界で知られた唯一の「被爆国・日本」と称えられながら、被爆者は国から見捨てられているのが現状です。他国への援助も大切でしょうが、原爆被爆者は自国の戦争犠牲者であり、戦争被害者なのです。
 そして、私は、非戦闘員です。
 これ以上、高齢化した被爆者に、悲しい思いで死を迎えさせないで下さい。それが「国の責務」だと考えるのは間違いでしょうか。