東京訴訟第5回口頭弁論 山本英典さんの証言
1945年8月9日、私は、長崎市本河内の自宅(爆心から4.2キロ)の裏庭の崖に、ひとり用の防空壕を掘っていました。中学1年生、12歳でした。
午前11時ごろ、アメリカの戦略爆撃機B29の爆音が北方から聞こえるので、「どの辺を飛んでいるのかな」と、壕から出て爆音の方角を見ました。雲が厚く、どこを飛んでいるのか確認できないでいたその瞬間、まっ白なベールで全身が包まれたようになり、何も見えなくなりました。あわてて掘っていた壕に逃げ込み、しばらくして外に出てみると、2階建てのわが家は、戸障子すべてが桟ごと吹き飛ばされていました。どうなったのかと家の中にはいると、室内はめちゃめちゃ。戸障子のガラス片が飛び散り、畳は浮き上がり、当時1歳の妹が寝ていたすぐそばに大きな書棚が倒れ、危うくつぶされるところでした。直撃でないことは確かですが、至近距離としか思えなかったので、いったいどこに爆弾が落ちたのかと、外に出て調べているうちに、新聞紙の焼けた切れ端みたいな灰が降ってきました。そのうちに、雨が降ってきました。どうして雨が降るのかと思いながらも、爆弾の落ちた場所をさがしていたため、かなり濡れました。
午後になると、国道沿いのわが家の前を通って避難する人々から、「浦上がやられたようだ。すごい火事になっている」という話が聞こえてきました。「浦上がやられたのに、なぜ、本河内(爆心地から約4キロ)がこんなにひどいことになるのか」と思いながら、国道の坂道を下って町の中心地に向かっていきました。
蛍茶屋まで下ると、市役所(爆心から3キロ)周辺が燃えさかっているのが見えました。近づくと、高台にある市役所を境に火の壁となっており、火の壁の手前にはロープが張ってあって、それから先は立ち入り禁止になっていました。
私の兄は5つ違いで、瓊浦中学(爆心から0.8キロ)で助教をしていました。「浦上がやられた」と聞いて、どうなっているのか心配でした。このすごい火の海をくぐって逃げてこられるのかどうか心配しながら、避難の人々を見ていましたが、兄の姿は見えないため、4時頃、本河内のわが家に帰りました。
兄は、夜7時すぎ、杖をついて、くたびれきった姿でしたが、外傷はなく、帰ってきました。兄から、浦上のひどい惨状を聞きました。兄は、翌日、「生徒たちを救助しなければ」といって学校へ向かいました。翌日も出向きました。3日目の12日だと思います。兄が「浦上も落ちついてきた。とにかくびどいから、見ておくのがいいぞ」といって、私と弟を爆心地近くに連れて行ってくれました。長崎駅前から電車道に沿って、爆心地に向かいました。焼け跡は一面まっ白。何の音もなく、人の姿も見えない。不気味でした。高台にある瓊浦中学のつぶされた校舎を見て、南を見ると、長崎港が目の先の近さに見え、こんなに港が近かったのかと驚きました。長崎医大正門下には、馬の死体が横たわっていました。
兄は17日から、放射線の急性症状を発症し、死の境をさまよいました。脱毛。血性下痢。嘔吐。高熱。幻覚。激しい呼吸困難・意識混濁。こんな兄の「治療薬」だといって聞こえてきたのが、「柿の葉っぱを煎じて飲むのがいいらしい」「サボテンの葉がいいらしい」などということでした。高熱を発してうなされ、幻覚にさいなまれていても、何の薬も与えることができず、氷嚢を替えてやるしかない兄の苦しみでした。
兄は、幸い一命を取り留めましたが、1948年(昭和23年)ごろ、ジープでアメリカ兵が家に来て、兄をABCC(原爆傷害調査委員会)に連れて行きました。帰ったとき、兄はしおれていました。「あなたの目は原爆で灼かれている。1年後には見えなくなるだろう」と宣告されたといいます。このため兄は、「どうせ見えなくなるなら好きなことをする」といって、焼酎漬けの毎日が始まりました。1年たったとき、目は何ともありませんでしたが、荒れた生活がたたって肺結核になり、肋骨を6本切るという事態になりました。人の未来を閉ざしてしまうような診断をして、なんてABCCは無責任なんだと、思ったものでした。兄は無気力な生活の末、道路上で倒れ、植物人間になって64歳で亡くなりました。
私は、1995年9月25日、職場で大量下血をして、救急車で病院に運ばれました。病院では、肛門からファイバースコープを挿入して、大腸から小腸へと、出血場所を探しましたが、分かりませんでした。「胃か12指腸かもしれない」ということで、胃と12指腸も調べられましたが、これでも、出血場所は分かりませんでした。翌日、ふたたび大腸の内視鏡検査がおこなわれました。このときも、出血場所は分かりませんでした。出血量は、ヘモグロビンの減少から見て、800ccぐらいではなかったかと、医師がいっていました。
その翌日、別の病院に転送されました。ここでは、カテーテルを太ももの動脈から挿入して検査薬を注入して毛細血管まで調べられましたが、これでも、どこから出血したのか不明でした。結局、14日間入院しましたが、原因不明のまま退院、今日に至っています。
大量下血は、私だけの特異な例なのかと思っていたら、こんど一緒に提訴した三鷹の河合正江さんが、1999年12月1日に、大量下血をして杏林大学病院に緊急入院しました。主治医は、出血量は1000ccを超えている、危篤と診断、家族全部が枕元に呼ばれました。しかし、河合さんは奇跡的な回復を見せ、1カ月半後には退院となりました。このときも、結局「出血場所不明」でした。病院の先生方が書いてくださった診断書には、「下血は、血小板減少症によると推定される。血小板減少症になったのは造血機能障害による。造血機能に障害が起きたのは、原爆放射線によるとしか考えられない」というものでした。
2000年12月には、熊本の被爆者が大量下血しましたが、アメリカの平和団体に呼ばれていたため、無理して渡米したという話を本人から聞いてびっくりしました。この人も、出血原因、出血場所は分からずしまいでした。つい先日のことです。3月はじめに、東友会の役員である被爆者が、「知らない間に2回も下血してズボンが血まみれになっていた。病院で止血剤をうってもらって血は止まったが、なぜだかわからいままだ、こわいね」と話していました。
被爆者には、今の医学では解明できない、原因不明の疾病が起きる可能性がある、と感じたものでした。それが現実化したのが、2001年7月に発見され、8月に摘出手術となった「胃ガン」でした。直径7ミリメートルの正真正銘の胃ガンでした。ある報道で、「胃ガンが直径1センチメートルになるには10年かかる」ということを聞いたことがあります。1センチメートルになってからは急速に増殖して、手遅れになることが多いとのことです。私のは7mmでしたから、7年ぐらいかかったのではないかと思います。そうすると、下血をした年に、ガン細胞が胃に発生したのではないかと思わざるをえません。
被爆者はこんど、集団訴訟を起こしました。私たち被爆者には、これまでの原爆症認定方法が納得できないのです。東京には9000人の被爆者がいますが、原爆症認定を受けている人は90人です。1%です。全国的には0.75%です。入市して救援に当たった被爆者や、爆心から2キロを超える地点での被爆者は、全くと言っていいほど原爆症と認定されていません。集団申請がよびかけられたとき、東京では70人が申請しました。このうち15人が認定され、41人が却下されました。提訴にまで踏み切ったのは29人でした。提訴をあきらめたのは、これまでの厳しい審査状況を見て、「裁判する気力も体力も残っていない」ということと、提訴することによって新聞などに名前がでて、家族が新たな差別を受けるのではないかという不安でした。それでも29人が提訴に踏み切ったのは、「原爆は許せない、黙っては死ねない」と思うからだと、原告たちは語っています。
提訴した人の中でも、早くも2人が死亡し、一人は痴呆症になり、一人はガンの転移で深刻な状態になっています。私は早期発見早期治療のおかげで、経過観察で異常は出ていませんが、原告になった人びとは命を削るような思いでこの裁判に取り組んでいます。
こうしたなかで3月31日に東京地裁で出された東数男さんの裁判の判決は、苛酷で未解明な被爆実態を直視し、冷たい被爆行政の誤りを正すものでした。私たち被爆者に生きる希望を与えるものでした。この裁判所におかれましても、被爆の実相を直視し、被爆の実態にそった判決をくださるようお願いして、私の陳述とします。