原爆症認定集団訴訟 東京第1次訴訟 判決を待つ原告の思い
原爆被害の深刻さ、残酷さを国に認めさせたい
被爆62年目を迎えました。来る2007年3月22日に原爆症認定集団訴訟東京第1次訴訟の判決が東京地裁で出されます。すでに、原告30人中10人が、無念のうちに亡くなりました。いまなお原爆に苦しめられている被爆者が、なぜ裁判を起こさなければならなかったのか…。3月の判決を待つ原告の思いを、あらためて振り返ってみました。(文責:「東友」編集部)
命をかけて
初代の東京原告団団長だった加藤力男さんは、提訴の2年後、2005年7月に亡くなりました。享年80歳でした。
戦後、被爆者だと知れたことで結婚が壊れてから、独り暮らしを通し、孤独な死を遂げた加藤さん。死因や亡くなったときの様子は、今もわかりません。
加藤さんが最後に法廷に姿を見せたのは2004年11月。胃ガンの手術のあと、食事がとれなくなっていた加藤さんの体重は30キロ台に落ちていました。この日、厚生労働省前で加藤さんは原告団長として訴えました。
「核兵器の被害を二度とくり返させないでください。原爆の被害を知らせるために私たちは裁判をしているのです」
無念の思い
提訴後、高木留男さんが「提訴の日を知らなかった」と東友会に抗議にきました。提訴の前日に電話で連絡したことをすっかり忘れていたのです。認知症のはじまりでした
国会請願行動や平和行進に欠かさず参加していた高木さん。米大使館前では腎臓ガンの手術跡を晒して核実験に抗議しました。
しかし高木さんは一度も法廷の原告席に座ることはできませんでした。白血病で死んだ妻が原爆症認定を却下されたことへの怒りを胸に「妻の分までがんばる」と提訴の決意を語った高木さんはいま、特別養護老人ホームで生活しています。
病身を押して
2006年7月、東京地裁の最終弁論で、車いすの上から意見陳述をした齊藤泰子さんは、提訴後の記者会見で「原告のなかで一番若い私が、みなさんを支えなければ」と話していました。
しかし、提訴直後にガンの転移がわかり、闘病の日々。まだ65歳の齋藤さん。しかし2006年秋から身の回りのことが全くできなくなり、病院のベッドに寝たきりです。
「がんばれ、がんばれと自分を励ましてきたが…疲れた。判決を聞きに行きたいけど、無理かも知れない…」
(「東友」編集部より 齊藤泰子さんは、大腸ガン肺転移により2007年2月3日未明、亡くなられました)
これ以上待てない
3月22日の判決日を待つ原告本人や家族の思いは切実です。
東京の第1次原告は30人中25人が悪性腫瘍・ガンです。3種類の多重ガンとたたかっている87歳の赤井啓三さんは、法廷に出られたのは20回のうち2回だけ。
「判決がどう出るか心配です。私の生きている間に解決してほしい」
前立腺ガン治療の後遺症で出血が止まらず、入退院をくり返している吉澤純一さんは、「行きたいね。なんとか体が言うことをきいてくれればいいが」と。2006年4月に肝硬変・肝臓ガンで亡くなった吉田忠さんの妻・登美子さんは、「夫の遺影を持って必ず行きます」と話しています。
被爆から62年。被爆者の"戦後"は、まだ終わっていません。