原爆症認定集団訴訟 東京訴訟 「隠れ被爆者」の苦しみに涙
原爆症認定集団訴訟の第8回口頭弁論が、2004年11月24日午後1時半から4時まで、東京地裁103号法廷でおこなわれました。
弁論に先立って、「東京おりづるネット」主催で厚生労働省前要請行動をおこない、「被爆者に国家補償を」「原爆症認定基準を根本的に改めよ」などと唱和を繰り返しました。
この日は、原告本人への尋問。長崎被爆の加藤力男さん(当時20歳)と、広島被爆の平井園子さん(当時8歳)が証言。弁論傍聴には、原告、被爆者、支援者ら120人が参加、中には「インターネットをみてきた」という大学院生もいました。
平井さんが「隠れ被爆者」として59年生きてきた苦しみを語り、「核兵器はやめてください」と叫ぶようにいって証言を終えたとき、傍聴席から感動の拍手がわきました。次回から小法廷で原告証言、大法廷で専門家証言となります。
原告の証言(要旨)
熱線と爆風で「重火傷」 加藤力男さん(長崎被爆)
長崎市中之島の陸軍高射砲部隊(2キロ)で被爆。太陽が落ちてきたかというほどの閃光と熱線、爆風で、顔、首筋に火傷を受けた。「重傷」ということで南山手の鍋冠山の陸軍兵舎にトラックで運ばれた。古井戸の水で顔を見たら、かさぶただらけでお化けのようだった。
8月23日に佐賀陸軍病院へいった。火傷は化膿し、異様な倦怠感と、発熱、おう吐が続き脱毛した。
昭和21年4月、元の銀行に復職したが27年に退職。米駐留軍で働くなど職を転々。日雇いもした。平成13年に胃ガン発見。14年切除。認定申請。却下で訴訟に。
8歳、麻酔なしで手術 平井園子さん(広島被爆)
広島・牛田町の安楽寺内の寺小屋(2キロ)で被爆。気がつくと生き埋めになっていた。左頭部の動脈が切断されていた。神田橋をわたり白島方面に逃げたが、火に追われて意識を失い、気がつくと畑の木の下にいた。そこで偶然、父に会った。
8月9日、左頭部動脈切断の治療のため野戦病院へいった。戸板の上に浴衣を敷き、大人7人に押さえつけられて麻酔なしで手術。痛さで気を失った。
東胡町にあった自宅が焼けたので大竹に移った。倦怠感、歯根出血、傷の回復遅れで休学した。
学校で「ピカドンがうつる」といって友達が被爆した子から逃げるので、私も逃げた。その日から私は「隠れ被爆者」となった。
肺結核、結核性腸閉塞、肺の一部切除など病気が続いたため、旧名を今の名に変えた。造血機能障害、子宮体部ガン、C型肝炎、肝硬変、慢性硬膜下血腫、腸閉塞と病が続いたが、認定却下され、訴訟に踏み切った。