原爆被害を告発する学習と交流のつどい
「にんげんをかえせ」「核兵器なくせ」
青年、医師、弁護士ら次つぎ発言 原爆症認定運動広げようと125人
2003年2月22日にエデュカス東京で開かれた「原爆被害を告発する学習と交流のつどい」は、125人の参加者中3分の1が青年たちという、画期的な集会となりました。これは、5月末に集団提訴を予定している「原爆症認定集団訴訟」の出発点として「原爆裁判の勝利をめざす東京の会」がよびかけたもの。
「つどい」は、児嶋徹・東京の会会長のあいさつと11人の青年たちが朗読する構成詩「あの日の広島・長崎」で開会しました。構成詩は緋田聡子さん(早稲田大学学生)が、東京の被爆者の体験と峠三吉の「にんげんをかえせ」をオーバーラップして執筆したもの。たくみな構成が、参加者の感動をよんでいました。
つづいて、集団提訴を決意している9人の被爆者一人ひとりが決意をのべ、提訴に参加する東友会の山本英典事務局長が集団訴訟の目的とすすめ方について発言しました。
その後、東友会顧問医の園田久子医師が20年間被爆者医療に携わった医師の目で見た被爆者の戦後の苦しみを感動的に報告し、東京弁護団の竹内英一郎弁護士が、訴訟の争点と展望について講演しました。
フリートーキングでは、被爆者が「今もつづく原爆被害を明らかにさせたい」、被爆二世が「もう黙ってはいられない」と発言し。これを受けて「被爆体験の第一次継承世代としての役割を痛感している」と青年が次々に訴えるなど、「被爆者と参加者の心がひとつになった」「裁判に勝てると確信が持てた」という感想が寄せられる盛り上がりになりました。
「東京の会に参加を」 行動提起
つどいの最後に、青年の会準備会の田村亜紀子さんが、「集団訴訟の勝利のために、人類最初の核戦争を体験した被爆者の体験と戦後の苦しみを聞き取り、伝え、残すとともに、学び、話しあい、行動し、『東京の会』への参加を広げよう。なによりも、私たちと世界の未来のために」という行動提起を読み上げ、大きな拍手で確認されました。
行動提起 私たちと世界の未来のために
57年前の広島・長崎。街は、一瞬、激しい熱い光に包まれました。次の瞬間、
すべてを焼き尽くす風と炎が街を覆いました。
熱線は人々の肌を焼き、爆風は建物を押しつぶし、炎は全てを焼き尽くしました。あれは、まさに「地球最期」の光景でした。
しかし、地上数百メートルで、あの原爆が炸裂した瞬間、光や風や炎よりも恐ろしい「放射線」が、人々の体を突き抜けたのです。「放射線」は、さらに街中のものを放射線を出すように変えました。
被爆者たちは、あの瞬間と、そしてその後も、「放射線」によって痛めつけられました。
あれから、半世紀をはるかにこえました。
「原爆は俺の体の中でガンになって生きている」。ガンのために50歳の若さで死んだ被爆者の声です。
かろうじて生き残った被爆者の多くが、「放射線」と関係が深いといわれるガンで、甲状腺や肝臓の病気で、苦しんでいます。
いまでも、「地球最期」の光景を夢に見て、家族や知人を見殺しにした自分の姿に、心を痛めている被爆者が大勢います。
それでも被爆者は、「私たちのような思いを、決して、誰にも味わわせたくない」と、いま「原爆の傷をさらして」立ち上がろうとしています。それが「原爆症認定集団訴訟」です。
「爆心地に3日目以後入った人や、爆心地から2.5キロを超えるところに居た人は、原爆放射線の影響はない」といいはる国に、核兵器がこんなにも人びとを苦しめつづけていることを、被爆者たちの人生から明らかにし、こんな核兵器を絶対に使わせないという立場に国を変える運動、それが「原爆症認定集団訴訟」です。
初夏には、東京で20人を超える被爆者が、裁判に立ち上がります。
私たちは、「原爆症認定集団訴訟」勝利のために
原爆症認定について学び、
自分の問題として考え、
何ができるかを、みんなで話しあい、
一人一人ができる行動はもちろん、
みんなですすめる行動に、積極的に参加します。
そのために、人類最初の核戦争を体験した被爆者の「あの日」の体験と、戦後の苦しみを聞きとり、伝え残すために努力します。
「原爆裁判の勝利をめざす東京の会」への参加を、家族や友だち、自分が所属している団体に呼びかけます。
なによりも、私たちと世界の未来のために。
2003年2月22日
原爆被害を告発する学習と交流のつどい 参加者一同