「あの日」語り継ぎ私たちが 早大学生らが元教授の被爆体験聞く
「身体をかけて原爆障害を明らかにしたい」「この被害を国が原爆症と認めないなら裁判も辞さない」。2002年、つよい決意で37人の東京の被爆者が「原爆症」の認定申請を出しました。2003年6月には、東京と広島・長崎などで集団訴訟が始まります。
いま、青年たちが「自分たちは被爆者の体験や願いを直接聞ける最後の世代だ。第1次継承世代としての使命を果たそう」と、「支える会」を結成する準備をすすめています。この青年たちは、アメリカの9.11同時多発テロ事件を契機に、平和を考えようと集まり、原水爆禁止世界大会などにも参加した人たち。
この中の早稲田大学の学生など10人が、早稲田大学を2002年3月に退職した教授も被爆者として提訴を決意していると聞いて、新春早々、森川靖夫・元教授(72歳)を囲む会を開きました。
1.7キロ直腸ガン「原爆症」却下に
森川さんは14歳のとき、広島の爆心地から1.7キロにあった広島二中の校舎内で被爆。全身に負傷し、黒い雨を大量に受けました。3年前に直腸ガンが発見され、手術。その後2ヶ月も手術の傷がふさがらなかったこともあり、原爆症の認定申請を出しましたが、2002年3月に却下されました。
学者の道も被爆がきっかけ
森川さんは、校舎の中にいた自分が生き残って、校庭にいた母が原爆で殺されたという体験から「原爆を忘れよう」と努め、大学では1度も語らなかった被爆状況を厳しい表情でかみしめるように証言。心理学者の道を選んだきっかけが被爆にあったこと、集団訴訟に参加しようと決意したのは、厚生労働省が審査の基準にしている「原因確率」に疑問を持ったからだと語りました。
「被爆体験を語ろうとしなかったのは、なぜですか」「なぜ、いま語る気持ちになったのですか」など、学生の質問が始まると、部屋はまるで大学の一室の「森川ゼミ」のようになりました。食い入るように聞く学生たちに森川さんは、満面の笑みを返しながら答えていました。
世界の反対側思いやる人に
「囲む会」に参加した学生の感想を紹介します。
- 「思い出したくない」と思う体験を聞いて、この話をどう広げ、次の世代に伝えていくかを考えました。被爆した方、戦争を経験した方がたが高齢になられていくなかで、どういう形で同世代の平和の意識を大きくしていくかは私たちに託された課題だと思います。
- 被爆者の話を聞いたのは初めてだったので驚かされました。きょう聞いた体験は世界へと発信していくことも重要だと感じました。原爆の惨状はまだ正確には理解されていません。ハリウッド映画では平気で核兵器が使われるシーンが登場するのですから。
- 一番印象に残ったのは、森川先生からの「相手の死、世界の反対側の人たちの飢えも決して他人事と考えないで欲しい」という私たちへのメッセージでした。私たちの世代は「関係ない」、「興味ない」が得意な世代です。58年前のことを知っても、今の生活は何も変わらない。でもほんとうは関係あることを同世代の人たちに伝えたいし、世界の反対側の人たちの苦しみ悲しみを自分のものとできるような強さを持ちたいと思いました。
- 厚生労働省が主張する「原因確率」という科学的論拠に対して運動の側も科学に強くならなければならない側面があるのではないかと思います。厚労省の責任回避の姿勢は絶対に追及していかなくてはいけません。今後は訴訟を支えるために、さらに学習して周りの人たちに事実を伝えていきます。