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あずま数男かずお原爆裁判
高等裁判所に国側が提出した控訴理由書

【注】以下は、東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が、国側から提出された控訴理由書をスキャナーで読み込んでテキストに起こしたものを、ウェブサイト用に整形したものです。もくじのカコミ、見出し強調、原文にあった字下げの削除等は東京都原爆被害者団体協議会(東友会)によります。また、原文の丸付数字は、「文字化け」を避けるために「i.」「ii.」などのローマ数表記に置き換えています。文書の当該項目を参照される際はご注意ください。

控訴理由書

平成16年(行コ)第165号
原爆被爆者医療給付認定申請却下処分取消請求控訴事件
控訴人 厚生労働大臣
被控訴人 東数男

平成16年6月1日
東京高等裁判所第19民事部 御中

訴人指定代理人
  • 春名郁子
  • 池原桃子
  • 峯金容子
  • 川上正則
  • 志村陽子
  • 岩屋孝彦
  • 西田逆弘
  • 大室修一
  • 梅村上
  • 山崎秀義
  • 石本仁
  • 豊田真由子
  • 田中豊
  • 荒木規仁
  • 難波江功二

第1 はじめに

第2 放射線起因性の判断方法に関する誤り
 1 原判決の判断
 2 放射線起因性の立証において,高度の蓋然性が求められるべき理由
  (1) はじめに
  (2) 被爆者援護法の立法趣旨
  (3) 被爆者援護法が定める給付制度の概要
  (4) 放射性起因性に係る立証の程度を軽減することはできないこと
 3 放射線起因性の判断について
  (1) 放射線起因性の判断は,科学的・医学的知見によらなければならないこと
  (2) 昭和33年通知は放射線起因性の判断手法の裏付けとならないこと

第3 原判決は科学的知見等に対する評価・判断を誤ったこと
 1 疫学知見を因果関係立証のための証拠として利用する場合の留意点
  (1) はじめに
  (2) 疫学の意義
  (3) 米国の裁判官のために作成された「科学証拠に関するレファレンスマニチEアル」(乙第53号証)
  (4) 疫学的因果関係の有無の検討に当たっての留意点
  (5) 個別的因果関係の立証と相対危険度との関係
  (6) 小括
 2 ワン論文及びトンプソン論文によって被控訴人のC型慢性肝炎の放射線起因性を認めることはできないこと
  (1) ワン論文(甲第26及び第71号証)を根拠とする誤り
   ア ワン論文は、放射線被曝とC型慢性肝炎との関連性について検討したものではないこと
   イ ワン論文で明らかにされた相対危険度は1.14にすぎないこと
   ウ ワン論文は交絡因子について検討されていないこと
   エ その後の研究によって交絡因子の影響が否定されたということはできないこと
  (2) トンプソン論文はがんと放射線被曝の関連性を検討したものであること
  (3) 小括
 3 放射線被曝がC型慢性肝炎の発症・進行に影響を与えるか否かは明らかではないこと
  (1) 原判決の判断
  (2) HCV抗体陽性者において放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加したとはいえないこと
  (3) 放射線被曝がC型慢性肝炎の発症を促進したとは評価できないこと
  (4)小括
 4 原爆放射線がC型慢性肝炎を発症させる持続的な因子になるとした誤り
  (1) 原判決の判断
  (2) 放射線やラジカルによる遺伝子負傷の長期間経過後の影響はがんであること
  (3) 内部被爆による長期的な健康被害について科学的根拠は存しないこと
  (4)小括
 5 放射線被曝による免疫能力の低下がC型慢性肝炎を発症,促進させたとした誤り
  (1) 原判決の判断
  (2) 被爆直後の免疫能力の低下は回復すること
  (3) 小括
 6 急性障害等と現在の疾患を関連づけた誤り
  (1) 原判決の判断
  (2) 具体的根拠なしに,急性障害とその後の健康被害を関連づけることはできないこと
  (3) 昭和33年通知が放射性起因性の判断基準たり得ないこと

第4 被控訴人について放射線起因性が認められないこと
 1 はじめに
 2 個別の因果関係の判断について
 3 放射線被曝がC型慢性肝炎発症を促すという疫学的・科学的知見は存在しないこと
 4 被爆がなかったとしてもC型慢性肝炎を発症したと考えられること
  (1) HCV感染者の7割から8割がC型慢性肝炎を発症すること
  (2) 疫学調査において判明している被爆による相対リスクとの対比
  (3) 小括
 5 まとめ

第5 結語

第1 はじめに

 1 被控訴人(昭和3年10月10日生)は,昭和20年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾(以下「原爆」という。)に被爆した者であるが,平成4年に肝機能障害との診断を受けたため,平成6年2月16日,これは原子爆弾による放射線に起因するものであるとして原爆症認定の申請をした。
 しかしながら,その後,被控訴人は,C型肝炎ウイルス抗体検査で陽性とされ,C型慢性肝炎と珍断された。
 本件は,控訴人が平成7年11月9日付けで被控訴人の認定申請を却する旨の本件処分をしたため,被控訴人がその取消しを求めた事案である。
 なお,被控訴人は,平成13年2月に肺がんを認定疾病として原爆症認定を受けている。

 2 原判決は,被控訴人の肝機能障害の放射線起因性を認めたが,被控訴人の肝機能障害は,被爆後40年前後経過した後に発症したものであり,また,C型肝炎ウイルス(HCV)によるC型慢性肝炎であることが明らかになったのであるから,放射線被曝に直接起因する障害であるとはいえない。
 そこで,原判決は,「HCVの持続感染及びその進行によるC型慢性肝炎の発症に対して,原爆放射線の被曝が影響している可能性があるとみることには,相応の根拠が存する」などと判示し(原判決137ページ),「原告の肝機能障害については,原告が爆心地から至近の地点において多大な原爆放射線に被曝したことが,HCVの感染とともに慢性肝炎を発症又は進行させるに至った起因となっているものと認めるのが相当である」(同(143ページ)と結論づけた。
 原判決がその論拠とした「統計的,疫学的な知見」とは,甲第26及び第71号証,第74ないし第76号証.,乙第12号証の各報告書のようである(同123ないし127ページ,136ないし138ページ)。
 しかしながら,甲第26及び第71号証(以下「ワン論文」という。)は,いずれもワンらの報告書であるが,放射線被曝とC型慢性肝炎との関連性について検討したものではない。甲第74及び第76号証(以下「藤原論文」という。)は,いずれも藤原佐枝子らの報告書であるが,「抗HCV抗体陽性率と放射線量との間に関連性はない」とした上で,「放射線被曝がHCV感染後の肝炎の進行を促進した可能性」を仮説と位置づけ,更なる研究が必要と結論づけたものにすぎない(甲第74号証13ページ)。甲第75号証(以下「トンプソン論文」という。)は,原爆被爆者におけるがんの発生率を研究したものであり,放射線被曝とC型慢性肝炎との関連性について検討したものではない。また,乙第12号証は,「今回の調査から,原爆放射線被曝とHCV抗体陽性率は関係がなく,HCV感染では,原爆被爆者に肝癌,肝硬変,慢性肝炎が多いことは説明がつかなかった。」(同35ページ)と結論づけている。
 C型肝炎ウイルスの感染やこれによるC型慢性肝炎の発症又は進行について放射線起因性を肯定する医学,病理学,疫学等の科学的知見は存在しないのであり,原判決は,その根拠として指摘した疫学的知見の評価を全く見誤っているのである(大阪高裁平成12年11月7日判決・判例タイムズ1057号128ページ参照)。
 また,この点をおくとしても,そもそも,C型肝炎ウイルスの感染者の大半は,被爆者でなくとも,被控訴人と同様の肝機能障害を発症するのである。被控訴人のC型慢性肝炎について放射線起因性があることを観めるためには,被控訴人が被爆者でなければ,現在の肝機能障害を発症させることはなかったことが立証されなければならない。しかし,本件について,この点が立証されていないことも明らかである。
 原判決の判示内容からすると,放射線起因性がないことの立証責任を控訴人側に負わせたものと考えざるを得ないが,そうであるとするならば,最高裁平成12年7月18日第三小法廷判決(判例タイムズ1041号141ページ。以下「平成12年最高裁判決」という。)に反することは明らかである。
 以下,原判決は,放射線起因性の判断方法を誤っていること(第2),放射線起因性判断の基礎とされた科学的知見等に対する評価を誤っていること(第3)を説明した上で,被控訴人の肝機能障割こついては放射線起因性が認められないことを明らかにする(第4)。
 なお,略称等は,特に断るもののほか,原判決の例による。

第2 放射線起因性の判断方法に関する誤り

 1 原判決の判断

 原判決は,放射線起因性の立証責任及び立証の程度について,最高裁平成12年判決を引用しつつ,原爆症認定申請者(被処分者)において立証すべきこと及びその立証の程度は,特別の定めがない限り,通常の民事訴訟における場合と異なるものではなく,高度の蓋然性を証明することを要するとしたものの(原判決131ページ),その具体的判断手法について,原爆被害の特殊性,症状によって起因性の有無を判断することが不可能であること,放射線の人体影響の詳細が未解明であること等の理由を挙げて,「原告が原爆放射線を被曝したことによって肝機能障害が発生するに至った医学的,病理学的機序についての証明の有無を直接検討するのではなく,放射線被曝による人体への影響に関する統計的,疫学的知見を踏まえつつ,原告の被爆状況,被爆後の行動やその後の生活状況,原告の具体的症状や発症に至る経緯,健康診断や検診の結果等を全体的,総合的に考慮したうえで,原爆放射線被曝の事実が肝機能障害の発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性が認められるか否かを検討することが相当である。」と判示した上(原判決131ないし133ページ),被控訴人の肝機能障害について放射線起因性を肯定した。

 2 放射線起因性の立証において,高度の蓋然性が求められるぺき理由

  (1) はじめに

 訴訟上の証明の程度は,訴訟法の解釈問題であるところ,行政訴訟における実体法上の要件に該当する事実の証明の程度については,民事訴訟法の例により,合理的な疑いを入れることができないほど高度の蓋然性があるものでなければならないとされており,原爆症認定における放射線起因性の立証についても最高裁が同様の見解を採っていることは,原判決も引用する前記最高裁平成12年判決において判示されているとおりである。
 そして,立法者が実質的に証明の程度を変えようとする場合には,立法に当たり,実体法上の要件の内容を変えることによってこれをなし得るし,また,それ以外の方法によっては,証明の程度の変更をなし得ない。しかるところ,被爆者援護法は,以下に述べるとおり,その立法趣旨にのっとり,放射線による健康被害に関し多様な給付をするため,医療の給付,各種手当の支給等について,その実体上の要件の規定の仕方について差異を設けているが,いずれの要件該当事実についても,その訴訟上の証明の程度は高度の蓋然性が必要であることを当然の前提としており,原爆症認定について特別に証明責任を転換したり,証明の程度を軽減する趣旨は読み取れず,むしろ,各支給要件の書き分け方をみると,そのような趣旨ではないことは文理上明らかである。

  (2) 被爆者援護法の立法趣旨

 第二次世界大戦により日本国民が甚大な被害を被ったことは,公知の事実であるが,これらに対する国による補償等の措置の要否は,国の立法政策にゆだねられており,具体的な法律の根拠があって初めて戦争損害に対する補償等が認められるべきものである(最高裁昭和43年11月27日大法廷判決・民集22巻12号2808ページ等)。現在戦傷病者戦没者遺族等援護法等の規定により,戦争による被害が給付の対象になる場合があるが,空襲等による被害一般につき補償等を認めている法律は存在しない。
 原子爆弾による健康への被害に関しては,まず,旧原爆医療法が昭和32年に制定され,ついで旧原爆特別措置法が昭和43年に制定されたが,いずれも原爆による特殊な健康被害の存在を前提として医療の給付等を認めたものであり,原爆による被害一般について,一般の空襲等による被害と同様のものも含めて給付の対象とする趣旨ではない。現行の被爆者援護法は,上記二法を一元化して制定されたものであって(医療給付制度及び原爆症認定制度は旧原爆医療法から,医療特別手当及び特別手当の支給制度は旧原爆特別措置法から,それぞれ引き継がれたものである。),上記の趣旨についても,旧原爆医療法や旧原爆特別措置法と同様である(同法前文参照)。

  (3) 被爆者援護法が定める給付制度の概要

 被爆者援護法は,このような立法趣旨を前提として,放射線による健康被害に関し多様な給付をするため,以下のとおり,放射線の影響の可能性,蓋然性の程度に従って,それぞれの程度に応じた給付を行うため,その実体上の要件の規定の仕方に差異を設けている。

 ア 被爆当時,一定の区域内にあった者であることを要件とするものとして,被爆者健康手帳の交付(被爆者援護法2条),健康診断(同法7条)及び指導(同法8条)などがある。これは,爆心地から一定の距離にあった者は,被曝後相当期間経過後であっても,放射線に起因して健康被害が生じる可能性があるため,放射線に起因する疾病等であることの証明を求めず,一定の地域にあったことのみで健康診断等を受け得るようにしたものである。

 イ 被爆者であることのほか,一定の障害,疾病に罹患したり,死亡した場合を要件とした上で,放射線起因性の要件を緩和し,原子爆弾の放射線又は傷害作用の影響によるものでないことが明らかであるものを除くとするものとして,健康管理手当(同法27条),介譲手当(同法31条),葬祭科(同法32条)の各支給がある。これらは,被爆者の福祉を目的として支給されるものであることから,放射線起因性の要件を緩和し,原子爆弾の放射線又は傷害作用の影響によるものでないことが明らかである場合を除き,これを支給することとしたものである。

 ウ 原子爆弾の傷害作用に起因すること,あるいは放射線の影響によることを要件とするものとして,医療の給付(同法10条)並びに医療費(17条),医療特別手当(同法24条)及び特別手当(同法25条)の支給などがある。なお,原爆医療法制定当初における援護施策の内容は,被爆者に対する健康診断と原爆症認定を受けた被爆者に対する認定に係る疾病についての医療給付の二つに限られており,実質的な援護を受けるためには原爆症認定を受ける必要があったものである。原爆症認定制度自体は,旧原爆医療法制定時から現行の被爆者援護法まで大きく変わるものではないが,昭和49年以降すべての被爆者について一般疾病の医療費の自己負担分が国から支給されることとなるなど(被爆者援護法下では同法18条に規定する一般疾病医療費),被爆者援護法制定に至るまで被爆者援護政策が拡大・充実した結果,原爆症認定を受けることの意義は,医療給付を受けるための前提要件から,医療給付・医療費の支給よりもより手厚い救済である医療特別手当又は特別手当の支給を受けるための前提要件へ変化したということもできる。

  (4) 放射線起因性に係る立証の程度を軽減することはできないこと

 以上のとおり,被爆者援護法に基づく各給付等は,その給付等の趣旨・目的に従い,異なる要件が定められているところ,申請者側において主張・立証すべきとされている各要件のうち,一部の要件に該当する事実について,訴訟上の証明の程度を緩和するような趣旨の規定はなく,いずれの要件該当事実についても,その訴訟上の証明の程度は,裁判官が確信を得ること,すなわち高度の蓋然性が必要であることを当然の前提としているものである。したがって,一部の要件について,各要件に該当する事実の訴訟上の証明の程度を軽減することは,上記の要件の違いを設けた法の趣旨・構造に反することとなる。
 したがって,放射線起因性について,事実上であれ,立証の程度を軽減することは許されないというべきである。

 3 放射線起因性の判断について

  (1) 放射線起因性の判断は.科学的・医学的知見によらなければならないこと

 前記1の具体的判断手法に関する原判決の判示の趣旨は,必ずしも明らかではないが,被控訴人の肝機能障害の放射線起因性について,医学的な機序に関する検討を要しないとする趣旨であれば失当である。
 放射線起因性とは,原爆症認定申請者の被爆と申請疾患との間の個別的な因果関係の存否であり,疾病発生の原因を究明するに当たっては,原子物理学,放射線学,疫学,病理学,臨床医学等の高度に専門的な科学的・医学的知見によらなければならず,これらの知見が放射線起因性の判断に際し,専門的経験則として重要な地位を占めるものである。放射線起因性の判断は,科学的・医学的知見を離れて行うことはできないものであって,その判断に素人的,あるいは被爆者を保護すべきであるといった価値判断を入れたものであってはならない。
 このことは,被爆者援護法において,厚生労働大臣は原爆症認定を行うに当たり,申請疾患が原子爆弾の傷害作用に起因すること又は起因しないことが明らかである場合を除き,審議会等の意見を聞かなければならない(同法11条2項)と規定されていることからも明らかである。
 すなわち,同条項は,申請疾病が原爆放射線によるものかどうかの判断が極めて専門的であり,医学・放射線防護学等の知見を踏まえて判断しなければならないとする趣旨によるものであり,また,処分時に判明している最新の科学的知見に基づいて放射線起因性を判断すべきものであることによる。よって,放射線の人体に与える影響について未解明の部分があるとしても,何ら科学的な裏付けがなく,確立していない学説,推測,意見等により起因性を判断すべきではない。科学的・医学的に放射線の傷害作用と当該疾病との間に有意な関係が認められていないにもかかわらず,処分当時未解明の部分があるからといって放射線起因性を肯定することは,放射線と疾病との関係が不明であるものについて放射線起因性を肯定するに等しく,前記の被爆者援護法の趣旨・構造を没却することになる。

  (2) 昭和33年通知は放射線起因性の判断手法の裏付けとならないこと

 ア 原判決は,「放射線の人体に与える影響については,その詳細が科学的に解明されているとは言い難い段階にあり,また,原子爆弾被爆者の被爆放射線量についても,その評価は推定により行うほかないのであって,放射線起因性の検討,判断の基礎となる科学的知見や経験則は,いまだ限られたものにとどまっている状況にある。」と判示した上,前記のような放射線起因性の判断方法を示し,その裏付けとして,厚生省公衆衛生局長通知「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律により行う健康診断の実施要領について」(昭和33年8月13日衛発第727号,甲第15号証227ページ)及び「原子爆弾後障害症治療指針について」(同日付け衛発第726号,甲第15号証226ページ)による「庚子爆弾後障害治療指針」(以下それぞれ「実施要領」,「治療指針」といい,両通知を併せて「昭和33年通知」という。)を挙げる(原判決133,134ページ)。
 しかし,これは昭和33年通知の意義及び性質について誤った解釈に基づくものであって,失当である。

 イ 昭和33年通知は,その記載内容をみると,実施要領は,被爆者の健康診断を行うに当たって考慮すべき事項を,治療指針は,健康保険の診療方針に関して特に留意すべき事項を,それぞれ定めたものである。すなわち,医療の現場では,個々の診療行為におけるささいなミスや見落としが受診者の生命・身体に関わる重大な問題となることから,医師は,たとえ確率が低く容易に起こりそうもないことであっても,常に最悪のケースを念頭において診療に当たるものであって,昭和33年通知もこのような考え方に基づき,被爆者であれば,どのような人も一律に放射線に起因する何らかの健康障害を受けるわけではないが,それでも可能性は念頭に置いて診療等にあたらなければならないという心構えのようなものを示したものである。したがって,放射線起因性の証明責任の所在及びその程度についての解釈指針を示したものではなく,その根拠となり得る性質のものではない。
 また,昭和33年通知が発せられた当時は,被曝放射線量の評価等について,暫定線量であるT57Dが発表された直後であり,被爆者健康調査についても,昭和20年の日米合同調査団や東京帝国大学による被爆者の実態調査の結果しか存在せず,被曝の距離関係や被曝線量と被爆者の健康影響との関係が全く明らかではなかった時代であった。このようなことから,実施要領は,「…ただ単に医学的検査の結果のみならず被爆距離,被爆当時の状況,被爆後の行動等をできるだけ精細には握して,当時受けた放射能の多寡を推定するとともに,被爆後における急性症状の有無及びその程度等から間接に当該疾病又は症状が原子爆弾に基くか否かを決定せざるを得ない場合が少なくない。」と指摘し,治療指針は,「原子爆弾被爆者に関しては,いかなる疾患又は症候についても一応被爆との関係を考え,その経過及び予防について特別の考慮がはらわれなければなら」ないと指摘しているのである。その後,長期にわたる広範な疫学研究が積み重なり,被曝線量の評価も,T65D,DS86と進化しているのであるから,上記のような段階で発出された昭和33年通知を,現段階における放射線起因性の証明責任の所在及び程度の解釈根拠とすることができないことは明らかである。なお,治療指針の「治療上の一般的注意」における上記記載に現れた考え方は,現在,被爆者であって,原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかなもの以外の疾病にかかっている者に対して健康管理手当が支給される制度(昭和43年制度創設)に引き継がれていることからみて,上記治療指針の記載が,原爆放射線に起因している蓋然性が低い疾患まで原爆症として認定すべきことを示唆するものでないことは明らかである。

 ウ 以上,昭和33年通知をもって,放射線起因性の証明責任の所在及び程度の解釈根拠とすることは,昭和33年通知の性質や内容を正解しないものであって失当である。

 4 小括

 以上述べたとおり,原爆症認定における放射線起因性は,申請者すなわち被控訴人において立証しなければならず,その証明の程度は「高度の蓋然性を証明すること」が必要である。そして,その判断は,科学的・医学的知見に基づいて行われなければならない。原判決は,一般論としては,高度の蓋然性を証明することを要するとしながら,具体的判断に.おいては,高度の蓋然性が認められないにもかかわらず放射線起因性を肯定しており,また,その判断手法は,科学的・医学的知見によるものとは到底いうことができず,原判決は,被爆者援護法10条1項の解釈を誤り,ひいては放射線起因性の判断を誤ったものである。
 以下,原判決が放射線起因性の判断根拠とした研究報告が,C型肝炎と放射線被爆との関連を肯定する根拠となり得ないものであり,現在の科学的・医学的知見によれば,C型肝炎による肝機能障害について放射線起因性を肯定することはできず,原判決は失当であって,被控訴人の申請疾病である肝機能障害について放射線起因性を否定した本件処分が適法であることを明らかにする。 

第3 原判決は科学的知見等に対する評価・判断を誤ったこと

 1 疫学知見を因果関係立証のための証拠として利用する場合の留意点

  (1) はじめに

 原判決は,「HCVの持続感染及びその進行によるC型慢性肝炎の発症に対して,原爆放射線の被曝が影響している可能性があるとみることには,相応の根拠が存する」などと判示し(原判決137ページ),被控訴人のC型慢性肝炎の放射線起因性を認めた。その論拠となったのは,前記のとおり甲第26及び第71号証,第74ないし第76号証,乙第12号証の各報告書のようであり(同123ないし127ページ,136ないし138ページ),これは,疫学的知見というべきものである。控訴人は,これらの知見では,被控訴人のC型慢性肝炎が放射線に起因することを認めることはできないことを論ずる前提として,因果関係の認定の場における疫学の意義と限界について明らかにする。

  (2) 疫学の意義

 そもそも,疫学とは,危険性が疑われる疾病要因は可能な限り排除するとの疾病予防,公衆衛生の見地から,集団における健康障害の頻度と分布を規定する諸要因を明らかにしようとするものである。したがって,疫学は,個々の患者についての疾病発生の原因,すなわち疾病と想定された諸要因との間の個別の因果関係の有無を究明するための決め手とはなり得ないものである(乙第58号証1,4ページ,乙第53号証訳文7ページ,52ページ以下)。
 被控訴人に発症した慢性肝疾患と原爆放射線との間に個別的な因果関係が認められるか否かについては,被爆者集団全体を対象とした疫学的研究の成果を踏まえ,いわゆる疫学的因果関係が認められるか否かが検討されるだけでなく,仮に疫学的因果関係の存在が認められるとしても,病理学,臨床医学,放射線学等の見地をも踏まえ,被控訴人の当惑症状が被曝に起因するものか否かが個別的に検討される必要がある(乙第58号証93ページ以下,乙第53号証訳文9,12ページ以下参牌)。

  (3) 米国の裁判官のために作成された「科学証拠に関するレファレンス・マニチEアル」(乙第53号証)

 米国の連邦司法センターは,全米の裁判官のために科学証拠の扱い方を概説した「科学証拠に関するレファレンス・マニチEアル」(乙第53号証,以下「レファレンス・マニチEアル」という。)を作成しているが,疫学証拠が証拠として提出される機会が増えていることを踏まえ,裁判において証拠として提出された疫学的知見を評価する際の留意点を詳細に説明しており,我が国においても参考にされるべきものである。
 この中においても,疫学は,集団における疾病の発生率にかかわるものであり,個々人の疾病の原因という問題には取り組まないことが強調されているほか(訳文52ページ以下,7ページ),疫学的知見の有効性を審査する際の留意点(同11ページ以下),曝露と疾病との一般的な因果関係を検討する際の留意点(同41ページ以下),個々の因果関係の立証で疫学が果たす役割(同52ページ以下)等が詳しく解説されているところである。

  (4) 疫学的因果関係の有無の検討に当たっての留意点

 疫学的にみて,一般的な因果関係があると認められるためには,疫学的研究の手法,結果等が,疫学的因果関係が認められるために必要な条件を具備しているか否かが検討されなければならない。

 ア まず,当該疫学調査が検討すべき要因と疾病との関連性をみるために正しくデザインされたものであるかが検討されなければならない(乙第53号証訳文11ページ以下,乙第58号証101ページ以下,118ページ以下)。バイアス(偏り)とは,研究対象に選ばれた者と選ばれなかった者との特徴の相違等,研究の結果に誤差をもたらすものであり,これがあると,その研究結果の有効性は損なわれることとなる(乙第53号証13ページ)。問題とされる健康影響は,明確に定義され,信頼できる測定がされている必要がある(同29ページ)。

 イ また,疫学調査の結果は,恣意的ではない適切な統計的検定によって有意性が確認されることが必要である。有意水準は,通常,5パーセント(0.05)又は1パーセント(0.01)とされるのが一般であり(乙第58号証121ページ),有意といえない結果は,統計的には意味のある調査とはいい難い。

 ウ 要因と疾病との間に関連性が見いだされたとしても,当該要因が疾病を引き起こしたのか,それとは別の交絡因子(当該曝露要因と疾病についての用量-反応関係に影響を及ぽす第三の要因)によって引き起こされたのかを判定する必要がある(乙第53号証41ページ,乙第58号証101ページ以下)。ある曝露要因と疾病との間に関連性が見出されても,交絡の結果であれば,曝露要因と疾病との間に真に関連性があるとはいえず,因果関係を肯定することはできない。

 エ 疫学的因果関係が認められるためには,さらに,関連の時間性(時間的関係。原因と思われるものが結果に先行すること。),関連の強因性(関連性が強いこと。),関連の一致性(原因と思われるものと結果との関連性が,異なる対象,時期においても普遍的に観察されること。),関連の特異性(原因と結果が1対1に対応すること。)及び関連の整合性(実験的研究などによる他の知見とよく整合していて,解釈できること。)といった要件に適合するか否かが検討される必要がある(乙第53号証訳文45・ページ以下,乙第54号証,乙第58号証17ページ以下)。
 相対危険度とは,曝露した個人における疾病の発生率を,曝露していない個人における発生率に対して比べた比率であるところ,曝露と疾病の関連性の程度を検討する際の指標として重要視されている(乙第53号証訳文31.46ページ,乙第58号証17ページ)。
 また,疫学的因果関係を考える上では,関連の一致性を検討することも重要であるとされており,要因と疾病との関連を一度観察しただけでは,原因であるかどうかの判断をすることはできないとされている(乙第58号証21ページ,乙第53号証訳文47ページ)。

  (5) 個別的因果関係の立証と相対危険度との関係

 被控訴人に発症した慢性肝疾患と原爆放射線との間に個別的な因果関係が認められるか否かについては,疫学的因果関係が認められるか否かが検討されるだけでは足りず,仮に疫学的因果関係の存在が認められた場合においても,病理学,臨床医学,放射線学等の見地をも踏まえ,被控訴人の当該症状が被曝に起因するものか否かが個別的に検討される必要があることは前記(2)のとおりである。
 このような個別的因果関係の有無を検討する過程において,疫学的知見によって明らかにされた相対危険度が参考にされることもあり得る。すなわち,相対危険度が1.0のときは,曝露した個人と曝露しなかった個人の危険度は同じであるということになり,作用因子への曝露と疾病との間に関連性はないとされるところ,相対危険度が2.0になると,その因子が原因で発病した患者数は,その他のあらゆる原因による患者数と等しく,曝露した人の疾病がその因子によって引き起こされた確率は50パーセントであるということになる。しかし,相対危険度が2.0をわずかに超えることを明らかにした疫学的知見があるからといって,その程度の相対危険度にすぎない場合には,当該作用因子への曝露によって発症したのか,他の要因によって発症したのかを高度の蓋然性をもって確定することができないから,疫学的知見だけでは個別的因果関係の存在を認めることはできない(レファレンス・マニチEアル・乙第53号証訳文53ページは,相対危険度が2.0を超える場合には,個別的因果関係の存在を推論できるものとするようであるが,これは,米国では民事裁判における立証の程度が証拠の優越で足りる(小林秀之・新版 ・アメリカ民事訴訟法210ページ参照),とされていることが背景にあると考えられるから,高度の蓋然性が必要とされる我が国においては当てはまらない。)。
 甲第26及び第71号証は,ワンらの報告書であり,慢性肝障害及び肝硬変の1グレイ当たりの相対危険度を明らかにしているが,その数値は1.14と極めて低く,個別的因果関係の存在を推定することはおよそできないことに留意されるべきである(甲帯71号証)。

  (6) 小括

 以上に述べたように,疫学的知見を個別の因果関係(放射線起因性)存否の判断に用いる際には,その疫学的知見の持つ限界について十分な配慮がなされなければならない。ある疫学的な研究結果が存在するとしても,そこから疫学的因果関係が認められるか否かについては十分な検討がなされなければならないし,仮に疫学的因果関係が認められるとした場合でも,それを踏まえて個別の因果関係の存否の判断が別途に行われなければならない。
 原判決は,この点について全く配慮することなく,以下に述べるとおり,そもそも疫学的因果関係を証明したものとは認められない研究結果のみに基づき,被控訴人の慢性肝障害の放射線起因性を認めており,その判断に誤りがあることは明らかである。

 2 ワン論文及びトンプソン論文によって被控訴人のC型慢性肝炎の放射線起因性を認めることはできないこと

  (1) ワン論文(甲第26及び第71号証)を根拠とする誤り

 ア ワン論文は.放射線被曝とC型慢性肝炎との関連性について検討したものではないこと
 ワン論文(甲第26及び第・71号証)は,1958年(昭和31年)から1986年(昭和61年)までに収集されたAHS(原爆被爆者の成人健康調査)対象集団(コホート)の情報に基づき,がん以外の疾患の発生率と被曝線量との関係を検討した報告書である。ワン論文では,慢性肝疾患及び肝硬変について,大きくはないが有意な放射線影響がAHS集団で初めて観察されたとされているが(甲第26号証22ページ),同論文は,そもそも,C型肝炎ウイルスによるC型慢性肝炎に着目して検討された疫学的知見ではない。
 疫学研究の方法論的な有効性を審査する場合には,健康影響が明確に定義され,信頼できる方法で測定されなければならないとされているところ(乙第53号証訳文13,29ページ),一口に慢性肝炎といっても,様々な発生機序が考えられるのである。
 被控訴人の肝機能障害は,被爆後40年前後経過した後に発症したものであり,また,C型肝炎ウイルス(HCV)によるC型慢性肝炎であることが明らかになったのであるから,放射線被曝に直接起因する障害であるとはいえない。本件においては,C型肝炎ウイルスによるC型慢性肝炎の発症又は増悪に放射線被曝が寄与し得るか否かが検討されなければならないのである。
 しかしながら,ワン論文は,放射線被曝と慢性肝疾患及び肝硬変との関連性を一般的に検討した疫学的知見であり,これをもって,C型肝炎ウイルスによるC型慢性肝炎の発症又は進行に放射線被曝が寄与し得るか否かを論ずることはできない。

 イ ワン論文で明らかにされた相対危険度は1.14にすぎないこと
 ワン論文は,慢性肝障害及び肝硬変の1グレイ当たりの相対危険度を明らかにしているが,その数値は1.14と極めて低い(甲第71号証)。これは,放射線以外の要因によって発症した可能性が圧倒的に多いということであり,このように低い相対危険度を示唆する疫学的知見があったからといって,被控訴人の肝機能障害が放射線に起因するものと推認することはできない。
 C型肝炎ウイルスに感染した者の7,8割は,放射線に被曝していなくてもC型慢性肝炎を発症するとされているのであり(原判決114ページ参照),このことからしても,ワン論文を根拠に被控訴人の肝機能障害と放射線被曝との間の個別的因果関係の存在を推定することはできない。

 ウ ワン論文は交絡因子について検討されていないこと
 ワン論文においては,AHS集団において,慢性肝炎及び肝硬変の発症と被曝線量との間にそれぞれ有意な関係が認められたとされているものの,交絡因子の影響等について十分な検討がされていない。
 慢性肝疾患については,その有病率に影響を与える要因すなわち交絡因子になり得るものとして,肝炎ウイルスを始めとするウイルスの感染,アルコールの摂取,薬物等が考えられる。交絡因子の存在が否定されなければ真の関連性ひいては因果関係が肯定できないことは前記1(4)ウのとおりであるから,上記のものが交絡因子になっていないことが明らかにならなければ,統計上は被曝線量と慢性肝炎等とのに一見有意な関係があるように見えたとしても,疫学上,被曝線量と慢性肝疾患との間に有意な関係があることを肯定することはできない
 しかるところ,同論文は,C型肝炎ウイルスを交絡因子として考慮していないものであるから,同研究結果をもって,C型肝炎への放射線の影響を論じることは不可能である(乙第54号証)。
 また,ワン論文においても,ウイルス感染とアルコールの過剰摂取が慢性肝炎と肝硬変の主要原因であり,これらの要因との関係を検討する必要があることが述べられ(甲第26号証23ページ),「放射線が肝臓に与える影響の可能性があるらしいとしても,現在示されている相関が起因性を示すものかを決めるために,さらなる研究が必要である」と結論づけているのである。
 したがって,ワン論文から,被曝線量と慢性肝炎等の発症率との間に疫学的に有意な関係があるということはできないし,放射線被曝が慢性肝炎ないし肝硬変の発症に影響を与えているとすることもできない。

 エ その後の研究によって交絡因子の影響が否定されたということはできないこと
 原判決は,「寿命調査集団においてアルコールの摂取が一般に多量であることや,栄養状態が一般的に悪いことを窺わせる証拠はなく,寿命調査集団において飲酒のリスク要因増加が認められなかったとする研究が存在すること等に照らせば,被曝線量と慢性肝疾患等に有意な関係があることは否定できないというべきである」と判示し(原判決137ページ),ワン論文において交絡因子としてのアルコール摂取について検討していないとしても,同論文を根拠に慢性肝疾患と放射線との疫学的因果関係を肯定することに問題はないと理解しているようである。
 しかし,以下述べるとおり,上記理解は失当である。

 (ア)上記研究は甲第114及び第119号証を指しているものと考えられるところ,いずれの研究も慢性肝炎及び肝硬変について個別に検討したものではなく,消化器疾患という大きなカテゴリーで研究しており,これらの研究結果を直ちに肝機能障害に当てはめることは到底できない。消化器には放射線に対する感受性が高いとされている腸の粘膜上皮細胞等も含まれており,消化器疾患というカテゴリーにおいて被曝線量の増加と疾患との間に有意な増加が認められたとしても,それを慢性肝疾患に類推することはできない。したがって,これらの研究を,慢性肝炎に関する知見として用いることはできない。
 また,甲第119号証は,寿命調査集団(原審における被告準備書面(6)20ページ参照)における1950年から1990年の間のがん以外の死因による死亡について被曝線量との関連を調査したものであるが,「総括的に見て,解析を近距離被爆者に限定しても線量反応が強く示され,郵便調査から判明した潜在的な重要交絡因子の影響は極めて小さいので,LSS集団において放射線とがん以外の死因による死亡率との間に見られる関連性は交絡に起因するものではない」と考察している。(16ページ)。しかしながら,この考察は,最終学歴,職業,仕事上の身体活動,住宅の広さ,婚姻状況,喫煙状況,習慣的飲酒,食習慣に占める日本食の割合など考え得る危険因子と,これら危険因子情報の得られた郵便調査回答者のうちがん以外のすべての疾患の者の死亡率,及び線量との関係の解析中で導き出されたものであるところ(14ページ表3)がん以外の全ての疾患による死亡率との関連において解析しているのであって,肝硬変や慢性肝疾患との関連に特化して解析したものではない。すなわち,がん以外の疾病の一つである肝硬変や慢性肝疾患に限っていえば,当該疾病の危険因子として一般に認知されている飲酒歴などの交絡要因について,本論文では評価していないと理解すべきである。

 (イ) 以上のとおり,原判決が引用する上記各研究によって,交絡因子の影響が否定されたなどということはできない。
 そもそも,疫学調査は,当該調査が検討すべき要因と疾病との関連性をみるために正しくデザインされたものでなければならない。
 重要な交絡因子の影響が考慮されていないのであれば,それを前提とした評価がされなければならない。当該疫学調査とは別に,寿命調査集団においてアルコールの摂取が一般に多量であることや,栄養状態が一般的に悪いことを窺わせる証拠はないなどとして,当該疫学調査の妁E当性を評価することは,疫学的にみて相当とはいえない。
 したがって,原判決のワン論文の評価に関する判断は誤りであって,同論文は,慢性肝疾患の放射線起因性を肯定する根拠とは到底なり得ない。

  (2) トンプソン論文はがんと放射線被曝の関連性を検討したものであること

 原判決は,トンプソン論文(甲第75号証)において,肝臓がんの発症と放射線の被曝線量との間に有意な関係が認められたことを論拠の一つにあげているようである。
 しかしながら,肝臓がんと慢性肝疾患及び肝硬変とは,発症の機序が異なり,肝臓がんにおいてその発症と被曝線量との間に有意な関係が認められたからといって,これが慢性肝疾患及び肝硬変に当てはまるものではない。すなわち,肝臓がんを含む悪性新生物については放射線による遺伝子損傷によって発症する可能性が考えられているのに対し(証人戸田尋問調書151参照),C型慢性肝炎は,C型肝炎ウイルスの感染により発症するのであって,両者の発症の機序は全く異なり,遺伝子損傷がC型慢性肝炎発症に影響を及ぽすという科学的知見は存在しないのであるから,肝臓がんの発症と放射線の被曝線量との間に有意な関連性が存在するとしても,本件で問題となるC型慢性肝炎とは無関係である。

  (3) 小括

 以上のとおり,原判決が依拠するワン論文及びトンプソン論文は,いずれも被曝線量とC型慢性肝炎との関連性を認める根拠とはなり得ない。

 3 放射線被曝がC型慢性肝炎の発症・進行に影響を与えるか否かは明らかではないこと

  (1) 原判決の判断

 原判決は,藤原論文(甲第74号証)の内容を紹介した上、「HCV感染と被曝線量との間に有意な関係を認めることはできなかったものの,HCV抗体陽性者においては,放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加しており,慢性肝疾患の有病率が,HCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することが窺われ,放射線被曝がC型慢性肝炎に関連した慢性肝疾患の発症や進行を促進した可能性が指摘されるに至っている」(原判決137ページ)とし,これを根拠に,「放射線がHCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性がある」と判示した(同138ページ)。

  (2) HCV抗体陽性者において放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加したとはいえないこと

 しかしながら,藤原論文を詳細に検討すれば,同論文から「放射線がHCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性がある」などと導くことは到底できないのであり,原判決は,藤原論文の評価を明らかに誤っている。

 ア 原判決は,まず,HCV抗体陽性者において放射線量の増加に伴って慢性肝疾患の有病率が増加したと認定しているが,これは,甲第74号証図2(10ページ)のグラフが一見右上がりに見えることに起因する誤解である。
 このグラフから統計学的に有意な結果が得られているか否かは,信頼区間及びP値についての検討が不可欠である。
 P値とは,検定において用いられるものであるところ,検定とは,研究者が証明したいと考えている仮説(対立仮説。この場合には,HCV抗体陽性群において,慢性肝疾患の有病率と被曝線量との間に線量反応関係があるという仮説)とは反対の帰無仮説(この場合には,HCV抗体陽性群において,慢性肝疾患の有病率と被曝線量との間に線量反応関係がない(グラフでいえば傾きが0になる)という仮説)を立てて,調査の結果,帰無仮説が棄却されれば,それとは逆の対立仮説が証明されるという手法である(甲第117号証参照)。その中で,P値とは,「帰無仮説が正しいとしても,実際に得られた結果が生じる確率」であって,通常,疫学的に有意な結果であるか否かの水準となる有意水準は5パーセント又は1パーセントであり,P値が0.05又は0.01を下回らない限り,帰無仮鋭は棄却されない。
 また,信頼区間とは,被曝線量(X)と慢性肝疾患の有病率(Y)のような二つの数値の関連について検討する際に用いられる概念である。上記のような検討を行うために,横軸を被曝線量(X),縦軸を慢性肝疾患の有病率(Y)として,実際に観察された事例をグラフ上に落として,その傾きを統計学的に推定する手法が用いられるが,その結果,傾きが正(プラス)であれば, X とYは正の相関(被曝線量の増加に伴って有病率が大きくなるという関係)があると見ることができ,傾きが負(マイナス)であれば, X とYは負の相関(被曝線量の増加に伴って有病率が小さくなるという関係)があると見ることができる。この検討の過程において,推定すべき数値を幅のある範囲で示すこと(区間推定)が行われるが,この推定値は,ある確率で真の値が存在する区間(信頼区間;C1)をもって示される。この確率は95%を用いることが一般的である。すなわち95パーセント信頼区間の下限がA,上限がBであるということは,統計学的に推計すると,推定される対象の数値が95パーセントの確率でAとBの間にあることを意味する。信頼区間は,95パーセントの確率で真実が存在する幅であるから,推定された傾きの信頼区間の下限が正,すなわち当該区間が全面的に正であれば,95パーセントの確率で X とYは正の相関があることを意味し,信頼区間の上限が負,すなわち当該区間が全面的に負であれば,95パーセントの確率で X とYは負の相関があることを意味するが,下限が負,上限が正であって,当該区間が0(零)をまたいで存在している場合は,正の相関があるとも負の相関があるともいえない。すなわち, X とYは相関があるとはいえないことを意味する。例えP値が0.05を下回っていたとしても,それはグラフの直線の傾きが0(零)ではないことを示しているにとどまり,信頼区間が0(零)をまたいでいれば,その相関は正であるか負であるかは判明しなかったということになるのである。
 したがって,統計学的,疫学的に慢性肝疾患の有病率と被曝線量との間に線量反応関係があり,それが正の相関(被曝線量の増加に伴って有病率が大きくなるという関係)であるというためには,P値が0.05を下回り,かつ,95パーセント信頼区間の下限が0を上回っている必要がある。

 イ 以上を前提に,藤原論文について検討する。
 甲第74号証表6 (10ページ)には,HCV抗体陽性群のうち,i.低抗体価の群については,95パーセント信頼区間が(-2.19;4.09),P値が0.57,ii.高抗体価の群については,95パーセント信頼区間が(-4.64;14.64),P値が0.55とされている。この2種類の数値をHCV抗体陽性群全体としてまとめた上で,グラフ化したものが同ページの図2であり,HCV抗体陽性群全体の相対リスクの増加率(図2の上の直線の傾き)は1グレイあたり3.04とされている。しかしながら,その相対リスクの増加率の95パーセント信頼区間は(-1.05;9.02)であり(9ページ),P値は記載されていないが,上記の高抗体価群及び低抗体価群の数値から推測すると0.05を下回ることはあり得ないし,0.57,0.55という数値から大きく下がることも考え難い(証人藤原尋問調書191)。
 これらによれば,P値はいずれも0.05を大きく上回っており,到底有意な結果であるとはいえない。特に,高抗体価と低抗体価に分けた場合,帰無仮説が正しかったとしても線量反応関係が現れてしまう可能性,すなわち線量反応関係が偶然によるものであった可能性の方が,実際に線量反応関係が存在する可能性より高いという結果になっており,また,HCV抗体陽性群全体でみた場合でも,これに近い結果になっている。
 また,95パーセント信頼区間の下限は0を大きく下回っており(情頼区間の範囲は,図2にも点線で示されている。),線量反応関係がない可能性(傾きが0になり,直線が水平になる)や,仮に線量反応関係が存在するとしても,被曝線量の増加に伴って有病率が小さくなる関係にある可能性(傾きがマイナスになり,直線が右下がりになる可能性)も十分あり得るという結果になっている。
 以上のとおり,藤原論文においては,被曝線量と慢性肝疾患有病率との間には,有意な相関関係は一切認められていない。したがって,藤原論文における検討結果をもって,HCV抗体陽性群について,統計学的,疫学的に有意な線量反応関係,ましてや被曝線量の増加に伴って有病率が増加する関係が認められたとはおよそ評価し得ない。

 ウ 藤原論文においては,「放射線量に伴うCLD(注:慢性肝疾患)の有病率の増加は,抗HCV抗体陽性の対象者において極めて顕著であり」と記載されているが(12ページ),HCV陽性群の有病率の増加については,上記のとおり統計学的な有意差は認められていないことに注意すべきである。この点は,執筆者である藤原副部長も「HCV陽性の直線(注:甲第74号証図2の上の直線)自体について,明らかに増加傾向にあると結論づけたものではないというふうに考えてよろしいんでしょうか」との問いに対し,「この論文ではその点については何も触れていません」と回答しているとおりである(証人藤原尋問調書196)。
 控訴人は,原審においても,この点について詳細に主張したが(被告準備書面(6)58ページ以下参照),原判決はこの点に何ら触れることなく,上記のような判断を行ったものであり,藤原論文について正確な理解をしたか否かについては相当疑わしいといわざるを得ない。
 エ なお,藤原論文においては,HCV抗体陰性群についても,95パーセント信頼区間は(-0,05;0,46),P値は0,15であり(9,10ページ),P値が0.05を上回っており統計学的に有意ではなく,信頼区間の下限もマイナスとなっており,被曝線量の増加にもかかわらず有病率が変化しない可能性ないし減少する可能性もある結果になっている。

  (3) 放射線被曝がC型慢性肝炎の発症を促進したとは評価できないこと

 ア 原判決は,「慢性肝疾患の有病率が,HCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することが窺われ」るとし,この点についてのP値が0.097であることについては,「一般的な有意水準よりも幅を持った判断をせざるを得ないとする考え方にも一応の合理性が認められる」などとして,放射線がHCV感染者における慢性肝疾患の発症に影響を与える相当程度の可能性があることを否定することはできないとした(原判決1.37,138ページ)。

 イ しかしながら,前記(2)アのとおり,有意水準は0.05とするのが疫学の常識であるところ,藤原論文においてHCV抗体陽性群と陰性群の慢性肝疾患有病率の相対リスクの差の検定結果のP値は0.097で(9ページ),0.05を上回っているから有意差があるとはいえない。この点,藤原論文の原文(甲第73号証)ではmarginally significantとされているところを,甲第74号証では「かろうじて有意」と訳しているが,marginally significantはあくまでも「有意ではない」のであって,上記の訳は疫学の通念に反する不適切な訳である(乙第54号証)。
 また,その点をおくとしても,前記(2)イのとおり,HCV陽性群,陰性群それぞれの線量反応関係自体のP値は0.05を大きく上回り,信頼区間の下限もマイナスとなっているのであるから(HCV抗体陽性群の相対リスクの方がHCV抗体陰性群の相対リスクよりも小さい可能性もある。),HCV陽性群における線量反応関係の傾きと,HCV陰性群における線量反応関係の傾きとの間に、かろうじて有意な差異があった(P値=0.097)との評価に決定的な意味はないのである。すなわち,それぞれの直線について,線量反応関係が存在するという有意な結果は得られておらず,信頼区間の下限がマイナスで直線の傾きが右上がりになるのか右下がりになるのかも分からないという状態で,2本の直線の傾きに差があるかどうかを調べているにすぎないのであり,その結果,差が認められたとしても,HCV抗体陽性群の傾きがHCV抗体陰性群の傾きを上回っていることを示唆するものではない。したがって,これについて仮にかろうじて有意な羞があるとしても,放射線被曝がC型慢性肝炎の発症等に何らかの影響を与えていることの根拠にはなり得ない。だからこそ,藤原論文も,「放射線被曝がHCV感染後の肝炎の進行を促進した可能性」を仮説と位置づけ,更なる研究が必要と結論づけたものであり(甲第74号証13ページ,証人藤原尋問調書135,226以下),この点を正解しない原判決の判断が統計学,疫学の基本を無視するものであることは明らかである。

 ウ したがって,このような「仮説」をもって,「慢性肝疾患の有病率が,HCV抗体陰性の被爆者よりも陽性の被爆者において放射線量に伴い大きく増加することが窺われ」るとすることはできないし,ましてや,被控訴人のC型慢性肝炎が放射線被曝の影響を受けたと認定することが誤りであることは明らかである。

  (4) 小括

 以上のとおり,HCV感染者におけるC型慢性肝炎の発症と放射線被曝との因果関係を肯定する疫学的知見は存在しない。原判決が,上記論文等を根拠に因果関係を肯定したことは,科学的根拠に基づかない恣意的な判断というべきである。

 4 原爆放射線がC型慢性肝炎を発症させる持続的な因子になるとした誤り

  (1) 原判決の判断

 原判決は,i.放射線やラジカルによって損傷した遺伝子が不完全修復された結果としてはがんの発生が最も考えられるものの,それ以外の効果が起こらないと断言することはできないこと,ii.ラジカルによる化学結合の切断から生物効果が現れる期間は様々であり必ずしも短期簡とは限らないこと,iii.内部被曝の効果は十分に解明されておらず,長期的な健康影響を引き起こすとする見解もあることから,原爆放射線がHCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得ることが否定されているものとは認められないとした(原判決140,141ページ)。

  (2) 放射線やラジカルによる遺伝子負傷の長期間経過後の影響はがんであること

 ア フリーラジカルは短命であり(齋藤意見書ii.5ページで述べられているような一般のラジカルに比べて長命のものが存在するといわれているが,その寿命は長くても数日程度である。乙第44号証5ページ),体内のラジカルスカペンジャーによって,ラジカルは排除されるのであるから,数十年後にラジカルが残ることは考えられず,フリーラジカルによって被曝から数十年後に肝障害が引き起こされることは科学的にあり得ない。(乙第39号証7ページ,同第48号証3ページ,証人戸田尋問調書38以下,198以下,証人齋藤尋問調書258)。
 インターロイキン,TNFαなどのサイトカインについても同様である(乙第48号証3ページ)。
 したがって,放射線ないしラジカルによる肝障害が起こり得るとしても放射線曝露後早期の段階であり,それが被曝から数十年後の慢性肝機能障害の原因となることは考えられない(原審における被告準備書面(6)42ページ以下参参照)。

 イ また,放射線自体やラジカルによって,遺伝子が損傷されることはあるが,そのような細胞は遺伝子修復が行われるか,アポトーシスに到る(証人戸田尋問調書140)。しかし,放射線被曝によるアポトーシスは一過性であり,放射線被曝がなくなれば,アポトーシスは停止する。そして,遺伝子修復過程で遺伝子の不完全修復が起きた場合には,発がんの機序となることはあっても,慢性肝炎は起こらないのである(乙第44号証6ページ)。
 この点,齋藤意見書ii.及びiii.には,あたかも被曝による遺伝子損傷が肝炎の発症に影響を与える可能性があるかのような記載があるが,何ら科学的根拠に基づかないものである。

 ウ これに対し,原判決は,戸田教授が,証人尋問において,被控訴人代理人から,放射線による遺伝子損傷が起きた場合に,その効果としては,がん以外に考えられないかという問いに対し,いったんがん以外には思いつかないという供述をし,さらに「ないと断言できますか。」と追及され,「断言できますかといわれると,それはなかなか答えることはできません。」と供述したこと(同証人尋問調書147)をとらえて,放射線やラジカルによる遺伝子損傷から長期間経過後に肝機能障害が起きる可能性を肯定した(原判決119,141ページ)。
 しかしながら,戸田教授の尋問調書の該当部分を一読すれば明らかなとおり,戸田教授は,裁判において専門家として供述を求められ,科学者としての立場から厳密に真摯に回答しようと努力し,そのため,尋問時には,がん以外の影響についての文献,研究等について十分に精査した上でなければ「断言」はできないと述べているにすぎず,決して放射線による遺伝子損傷によりがん以外の肝機能障害を発症する可能性があることを肯定したものではない。がん以外の影響(本件でいえば慢性肝炎)が出てくることを科学的根拠をもって立証しなければならないのは申請者である被控訴人であって,そのような科学的証拠は本件において何ら提出されていないのである。
 上記のような供述をもって,放射線やラジカルによる遺伝子損傷から長期間経過後に肝機能障害が起きる可能性を肯定する根拠とした原判決は,証拠を恣意的に解釈評価したというほかなく,到底容認できない。

 エ また,原判決が根拠とした以下の証拠は,いずれも放射線やラジカルによる遺伝子損傷から長期間経過後に肝機能障害が起きる可能性を肯定するに足りるものではない。

 (ア) 肥田医師の意見書(甲第49号証)においては,「放射線障害を受けた細胞が疵を負ったまま生き延びると,白血球障害によって疾病の発病促進,増悪をもたらす」との意見が展開されているが,何らこれを裏付ける客観的資料は示されておらず,科学的根拠に基づくものではない。
 そもそも,肥田医師のいう「疵」とは何か明確ではないが,放射線によって白血球が障害されたとしても,骨髄において産生された健全な白血球に置き換わるのであり,放射線による遺伝子の不完全修復が肝炎の原因となるという一般的知見が存在するものでもない(乙第55号証)。

 (イ) 齋藤意見書iii.(甲第106号証)には,「仮に肝臓においても,将来分子生物学的研究(遺伝子変化の研究)が肝臓癌のみでなく,その母体と考えられている(ウイルス性)慢性肝炎においても進み,被爆者慢性肝炎においても,被曝とそれらの遺伝子変化との関連が重要な検討対象となることも有り得ないことではない」(5ページ。下線は控訴人指定代理人による。)と述べられている。この記述から明らかなとおり,齋藤医師自身も,現在,遺伝子変化と慢性肝炎の関連について明らかにした研究は存在しないことを認めており,将来,そのようなことが研究されることについては「有り得ないことではない」という低い蓋然性にとどまることを述べているのである。
 また,甲第113号証は,慢性肝炎発症後に肝細胞がんが発生する際の分子生物学的メカニズムについて検討したものであって,HCV感染からC型慢性肝炎発症の際の遺伝子変化について検討したものではなく,申請疾患が肝臓がんでない本件においては,的外れである。慢性肝炎を発症した後にフリーラジカルの生成,炎症性サイトカイン産生等を介して,遺伝子損傷,がん遺伝子の活性化を引き起こす可能性はあるが,これは,慢性肝炎の結果であって,原因ではないのである(乙第56号証)。

  (3) 内部被爆による長期的な健康被害について科学的根拠は存しないこと

 原判決は,血管造影剤であるトロトラストが投与後20ないし40年経過して肝硬変や肝線維症などの非悪性肝疾患の発生を増加させるとの報告があることが紹介されていると指摘し(原判決116ページ),放射線がHCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得るこ とを根拠づけようとするようである(原判決141ページ)。
 しかしながら,トロトラスト被注允E者ゐ臨床病理学的特徴を詳細に検討すれば,慢性肝炎で必ず見られる炎症細胞の浸潤が見られたとの報告はなく,また,トロトラスト被注允E者の80パーセントにおいては,血中トランスアミナーゼの上昇も見られていない。トロトラスト沈着による肝障害(トロトラスト沈着症)の場合,トロトラストが肝細胞(kupper細胞,血管内皮細胞)に沈着し,肝細胞が層状ないしび漫性に変性・壊死し,数か月から数年の経過でそのあとを埋めるように線維増性が進んで肝線維症となり,一部の症例は進んで肝硬変に至るものである。したがって,トロトラスト沈着症の病態は,上記の慢性肝炎の病態とも放射線肝炎の病態(病理所見で肝静脈閉塞を示す。)とも明らかに異なるものである(乙第56号証,乙第57号証)。
 したがって,トロトラスト被注允E者の肝障害は慢性肝炎ではないのであって,これを根拠に放射線がHCV感染から慢性肝炎を発症させる持続的な因子になり得るとするのは明らかに飛躍がある。

  (4) 小括

 以上述ペたとおり,放射線やラジカルによる遺伝子損傷の結果として,放射線被曝から長期間経過後に慢性肝炎を発症するという科学的・医学的根拠はなく,また,内部被曝による長期的な健康被害について科学的根拠は存しないものであって,原判決の上記判示も失当である。

 5 放射線被曝による免疫能力の低下がC型慢性肝炎を発症・促進させたとした誤り

  (1) 原判決の判断

 原判決は,さまざまな理由を羅列して,被爆による免疫能力の低下がC型慢性肝炎を発症,促進させたものと推測することの合理性を否定することはできないと判示している(原判決142ページ)。しかしながら,かかる原判決の判断は,以下のとおり,およそ非科学的な素人判断との誹りを免れない。

  (2) 被爆直後の免疫能力の低下は回復すること

 ア 放射線被曝は免疫機能を抑制するが,これは,免疫の一次応答や二次応答に深く関わる白血球の一種であるリンパ球の放射線感受性が高く,放射線によって障害されやすいことによる。ちなみに,原判決には.「白血球のうち免疫を司る好中球の割合が…」との記述があるが(原判決94ページ),本件で問題となっているウイルス感染に対する免疫機能において主として着目すべきであるのはリンパ球であって,好中球は免疫機能を担当する細胞の一つではあるが,ウイルス感染防御は担当しない(細菌感染防御や液性免疫機能を担当する)ものであるから(乙第55号証),免疫能力の低下によってC型肝炎が惹起されたかどうかを検討する際に好中球割合を問題とするのは誤りである。
 放射線被曝によりリンパ球が障害された場合,血液中のリンパ球は一時的には減少するが,造血機能を有する骨髄が非可逆的に障害されない限り,骨髄で産生された正常な細胞が補充され,リンパ球数は回復し,免疫機能も回復する。
 通常,50センチグレイを全身被曝するとリンパ球の一時的減少が,100センチグレイを被曝すると白血球数全体の減少が見られる。しかしながら,被曝線量が50ないし200センチグレイの場合,骨髄の短期的な抑制が起こるが,可逆性であって,短期間のうちに骨髄機能は回復し,リンパ球数や免疫機能も回復する。550センチグレイ程度被曝した場合,骨髄機能は非可逆的に障害を受け,白血球に限らずすべての血球が生産されなくなり,再生不良性貧血と呼ばれる重篤な病態になる。
 50ないし150センチグレイの被曝では,通常,被曝後数日から数週間の間に末梢血中のリンパ球数は減少し始め,数ヶ月のうちに正常値に回復する。通常,好中球はリンパ球より数日から数週間遅れた動態をとることが多い(乙第55号証)。

 イ 被控訴人の血球数のデータによれば,昭和20年9月20日には白血球数は減少していたが,その後同年10月9日には,白血球数は7200(成人における正常値は3500ないし11000)と回復しており,これは,骨髄機能が回復してきていることを示している。好中球割合が18パーセントと低い(正常は約50ないし60パーセント程度)が,これは,前述のとおり好中球がリンパ球より数日から数週間遅れた動態をとるためと考えられ,リンパ球数が回復していることからすれば,骨髄が白血球等の生産を開始し,免疫能が回復していることは明らかである。なお,同日時点で,好中球の絶対数は1300/mm3程度となっており,好中球減少症の定義は一般的に1500/mm3であるので,これを下回っているとはいえ,臨床的に細菌感染が問題になるとはいえないレベルにまで回復しているといえる。また,好中球の割合が低く,好酸球の割合が28パーセントと高いのは,被控訴人がサルフア剤の投与を受けていたことが影響している可能性も考えられる(乙第55号証)。
 さらに,肝機能障害で允E院する前の平成4年においては,白血球数7500,リンパ球19.5パーセントと正常値を示しており,非可逆的,継続的な骨髄障害は全く認められない。また,被控訴人には,仮に免疫機能が低下していれば罹患するような疾病に罹患した病歴も認められない。
 加えて,被控訴人の推定被曝線量が130ラド(センチグレイ)であることに照らしても,被控訴人が被爆によって骨髄に非可逆的な障害を受けたとは考え難く(骨髄に長期的な障害が及ぷのは200ないし300センチグレイ以上被曝した場合である。乙第55号証),これは,被控訴人の血球数に関する上記経過とも整合する。

 ウ なお,被爆者について,Tリンパ球の免疫応答能が低下しているとの報告は存在するものの(甲第120号証162ページ),その低下は十数パーセント程度であって,臨床的に影響が現れるほどの低下ではない。すなわち,免疫機能には個体差があり,例えば白血球数の正常値範囲は3500~11000とされており開きがあるが,多いヒトと少ないヒトの間で感染症罹患率に有意差は認められておらず,免疫機能の指標の若干の低下によっては実際の感染症発症のリスクの増加等の臨床的な影響は認められないのである(乙第55号証)。
 また,被爆者について,感染症罹患率と放射線被曝との間に有意差が認められたとする研究報告は,B型肝炎ウイルスについて若干の報告例があるほかは存在しない(原審における被告準備書面(6)61ページ参照)。むしろ,藤原論文(甲第74号証)によれば,抗HCV抗体陽性率及び抗HCV高抗体価は,被曝者の方が非被曝者に比べて有意に少なかったとされており(同証8,9ページ),このことは,被曝者の方が持続的な感染者の頻度が少ないことを示しており,少なくとも,被曝者がウイルスを排除して持続的感染を防げるだけの免疫力を備えていることを示すものといえる(乙第44号証10,13ページ)。
 したがって,被爆者について,C型慢性肝炎を発症,促進するような免疫能力の低下が認められるとする科学的知見は存しない。
 この点からも,被曝による免疫能力の低下が,HCV感染やC型慢性肝炎発症を促進したことは否定される。

  (3) 小括

 以上のとおり,被控訴人については,被爆直後にみられた白血球数の減少はその後速やかに回復しており,免疫機能が回復したことは明らかであって,その後長期間にわたって免疫機能が低下した状態にあったとは到底考え難く,被爆後30年余りを経て発症した慢性肝炎について,被爆による免疫能力の低下がHCV感染やC型慢性肝炎を発症,促進させたということなどということはできないのである。

 6 急性障害等と現在の疾患を関連づけた誤り

  (1) 原判決の判断

 原判決は,被控訴人が,被爆後2週間程度経過したころから,脱毛,血性の下痢等の原爆放射線の急性期の障害と認められる症状を発症し,白血球数が明らかに減少していること等から,原爆放射線によって相当期間に及ぶ重大な身体への影響を被ったことが認められるとした上で,「原告(被控訴人)の原爆放射線による急性障害の重篤性や原告の免疫機能が少なくとも一定期間低下した事実に加えて,原告の体調はその後回復したものの,他方において,被爆から長年月を経た昭和47年になって被爆時に体に刺さって允Eり込んだガラスがようやく排出されるなど,被爆後長年月に引き続き原子爆弾による影響をさまざまな形で被っていたことが窺われることを併せて考慮すれば,原告に生じた健康被害については,被爆後長期間を経過した後に発生したものであっても,…被爆との関係を考えるのが相当というべきである。」と判示した(原判決134,135ページ)。

  (2) 具体的根拠なしに,急性障害とその後の健康被害を関連づけることはできないこと

 ア 放射線被曝による健康影響は,白血球減少,脱毛,出血,吐き気等の急性障害(急性影響)と,悪性腫瘍,白内障等の後障害に区分することができ,両者の発病に至る機序や態様はまったく異なるものである。したがって,急性障害の発症を直ちに数十年後の疾患の発症と関連づけ,その疾患について原爆放射線の影響を肯定するのは,およそ非科学的である。
 被控訴人については,被爆直後に白血球数の減少が認められるものの,これはその後回復していることは,前記5のとおりであって,これが直ちに被爆後十数年を経て発症した疾患が原爆放射線の影響によるものと判断する根拠たり得ないことは明らかである。また,原判決は,昭和47年にガラス片が排出されたことを原爆放射線による健康被害と結びつけているが,ガラス片の排出と放射線との関連性,肝障害との関連性は全く不明である。

 イ 前記のとおり,ある疾患が原爆放射線の後障害であるか否かは,個々の疾患と原爆放射線との関連性についての病理学,臨床医学,放射線学,疫学等の見地からの具体的な科学的知見に基づいて判断されなければならない。そして,前記2ないし4のとおり,C型慢性肝炎を含む慢性肝炎,肝硬変については,医学的にも疫学的にも放射線被曝の影響があるとの科学的知見は存在しないのであるから,被控訴人が急性障害を発症した事実を前提としても,やはり被控訴人のC型慢性肝炎について放射線起因性を認めることはできないのである。

  (3) 昭和33年通知が放射線起因性の判断基準たり得ないこと

 原判決は,前記「原子爆弾後障害症治療指針」(甲第15号証,乙第26号証)をもって,「被控訴人に生じた健康被害については,被爆後長期間を経過した後に発生したものであっても,被曝との関係を考えるのが相当である」とする根拠としている(原判決135ページ)。
 しかしながら,治療指針は,旧原爆医療法11条1項の健康保険の診療方針に関して,特に留意すべき事項を定めたものであり,当該疾患の放射線起因性についての判断方針となるものではない上,昭和33年以降積み重ねられてきた科学的知見に基づいて行われる現在の審査に当てはまらないことは,前記第2の3(2)のとおりである。
 したがって,原判決が上記治療指針を被控訴人の肝機能障害の放射線起因性判断方法の根拠にしたことは,失当である。

 7 まとめ

 以上のとおり,原判決が被控訴人の慢性肝障害の放射線起因性を認めた根拠とした事実は,いずれも科学的根拠を欠き,誤りであることは明らかである。

第4 被控訴人について放射線起因性が認められないこと

 1 はじめに

 前記第3のとおり,放射線被曝がC型慢性肝炎の発症を促進させるとの科学的知見は存在しないことからすれば,被控訴人の慢性肝障害について放射線起因性が認められないことは明らかである。この点をおいても,放射線被曝をしたか否かに関わらず,HCV感染によってC型慢性肝炎を発症する可能性は一般に極めて高いのであるから,被控訴人の慢性肝炎罹患は,放射線被曝に起因したものというよりも,C型肝炎ウイルスによる一般的な病状経過の結果であると考える方が自然であって,この点からみても,放射線起因性が認められる余地はないというべきである。
 以下,疫学的因果関係をふまえた個別の因果関係の判断について概説した上で,本件の被控訴人の慢性肝障害について放射線起因性が認められないことを述べる。

 2 個別の因果関係の判断について

 前記第3の2(2)に述べた検討を経て,特定の要因と疾病との間に疫学的因果関係が認められたとしても,そのことのみで,個別の因果関係が肯定されるわけではない。疫学的因果関係には強弱があるものであって,当該要因が別の要因に比して相対危険度(相対リスク)が低ければ,個別的因果関係を検討するに当たっては,当該疾病は,当該別の要因に起因するものとの推定が働くことになることにも留意されるべきであり,個別の申請者の申請疾病に係る放射線起因性の判断においては,当該個人の体質や細菌,ウイルス等への感染等,当該疾患を引き起こす他の要因の存在等の事情をも勘案しなければならない。また,その上で困果関係の存在が高度の蓋然性をもって証明されなければならないことは,既に繰り返し述べたとおりである。

 3 放射線被曝がC型慢性肝炎発症を促すという疫学的・科学的知見は存在しないこと

 本件において,原判決が挙げるワン論文,藤原論文等からは,被曝線量の増加に伴って慢性肝炎,肝硬変が増加するとの疫学的知見が存在するとはいえないことは,前記第3において述べたとおりであり,その他にも放射線被曝がC型慢性肝炎をはじめとする慢性肝炎の発症に影響を与えるとの知見は存在しない。
 なお,甲第120号証17ページに,「放射線により遺伝子変異が起きた肝臓幹細胞に肝炎ウイルスが感染した場合に,キャリアーになりやすいかもしれない」との記載があるが,その前提として,「iv.HCV抗体高タイター(HCV持続感染)保有者中での慢性肝疾患有病率は線量と共に上昇するが,サンプル数が少なく有意水準に至らない,v.HCV抗体陽性慢性肝炎の発生率(HCV持続感染者)は,線量に応じて上昇するが,有意水準に至らない」と記述されているとおり,上記記載はHCVについて述べられたものとは考えられない(乙第54号証)。
 したがって,本件の被控訴人のC型慢性肝炎が原爆放射線に起因するものであると判断する根拠は何ら存在しないというペきである。

 4 被爆がなかったとしてもC型慢性肝炎を発症したと考えられること

  (1) HCV感染者の7割から8割がC型慢性肝炎を発症すること

 HCV感染者は,持続感染により慢性肝炎を発症する場合が多く,HCV感染者の70ないし80パーセントがC型慢性肝炎を発症する(原判決114ページ参照)。
 被控訴人のC型慢性肝炎について放射線起因性があることを認めるためには,被控訴人が被爆者でなければ,現在の肝機能障害を発症させることはなかったことが立証されなければならない。しかし,本件について,この点が立証されていないことも明らかである。

  (2) 疫学調査において判明している被爆による相対リスクとの対比

 ワン論文 (甲第71号証)によれば,被曝線量の増加に伴う慢性肝疾患の増加率はわず かであり(1グレイ当たりの相対リスクは1.14),放射線が仮に影響を与えたとしても,その影響は,そもそもHCV感染による慢性肝炎の発症の可能性に比べれば,極めて小さい。
 このことは,藤原論文(甲第74号証)でも象徴的に現れている。被曝線量が0の場合に,HCV抗体陽性群の慢性肝炎等の相対リスクは,(陰性群を1とすると)13.24であった(95パーセント信頼区間9.26;17.22,P<0.001。甲第74号証9ページ)。
 すなわち,仮に放射線がC型慢性肝炎発症に影響を与えていたとしても,過剰相対リスクで考えた場合,HCV感染は,放射線の何十倍もの影響を与えているといえるのである。

  (3) 小括

 したがって,仮に放射線披曝がC型慢性肝炎に影響を与える可能性が存在するとしても,被控訴人は,被爆していなかったとしてもC型慢性肝炎を発症した可能性が極めて高いといえるのであって,「特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性」が存在するとは到底認められず,放射線起因性を肯定することはできない。

 5 まとめ

 以上のとおり,そもそも放射線被曝がC型慢性肝炎を発症,促進させるとの科学的知見は存在せず,他方,一般的にHCV感染者の70ないし80パーセントがC型慢性肝炎を発症することからすれば,被控訴人は,放射線被曝がなかったとしてもHCV感染によってC型慢性肝炎を発症した可能性が極めて高いといえるのであるから,被控訴人のC型慢性肝炎について放射線起因性が認められないことは明らかである。

第5 結 語

 原爆による被害が極めて重大なものであって,原爆放射線による健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることは,被爆者援護法の前文にも記されたとおりである。そのため,同法は,同法11条1項の原爆症認定を受けていない被爆者に対しても,原爆放射線の影響によるものでないことが明らかである疾病を除いて,広く一般疾病医療費の支給(同法18条),健康管理手当の支給(同法27条)等の様々な援護策を講じているものである。本件の被控訴人も,原爆症と認定された疾患以外の一般の病気やけがについて都道府県知事が指定した医療機関等で健康保険等の患者負担分を負担しないで医療を受けることができ,さらに,肺がんを認定疾病として原爆症認定を受け,医療特別手当等の支給も受けている(原審における被告準備書面(6)4ページ以下参照)。
 本件で問題となっている原爆症認定は,原爆放射線の影響が疑われるだけでなく放射線起因性が認められる疾患については医療特別手当の支給(同法24粂)といった別個の援護を行おうとするものであり,同法が,当該疾患の放射線起因性については,「原爆放射線の影響が疑われる」という程度では足りず,高度の蓋然性の証明を要求していることは,最高裁判例も認めるところである。また,その判断は,審議会等の専門家の意見を聴いて(同法11条2項)科学的な見地から行うことが要求されていることは,勿論である。
 これまで述べたとおり,現在の科学的知見に基づく限り,被控訴人のC型慢性肝炎について放射線起因性を認めることはできない。にもかかわらず,原判決は,放射線起因性の立証の程度について,一般論としては通常の民事訴訟と同様に高度の蓋然性の証明が必要であるとしながら,その具体的な判断においては,証拠を恣意的に評価しておよそ非科学的としかいいようのない判断に終始しており,実質的に立証の程度を緩和し,あるいは,立証責任を控訴人に転嫁するものであって,このような事実認定の在り方を是認することはできない。
 したがって,原判決を取り消し,被控訴人の請求を棄却するように求める次第である。