被爆者相談所および法人事務所
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「相談電話のこえ」 2011年

2011年「東友」11月号から

原爆症の申請、以前はあの日を思い出し具合が悪くなってしまったけれど…

 73歳(被爆当時7歳)。女性。長崎1.8キロ被爆。医療特別手当の申請についての相談。

 ご無沙汰してます。用事があるときだけでごめんなさい。4年前に乳ガンの手術をしたとき、あなたに奨められた医療特別手当というの、申請したいと思って電話をしました。あのときは書類を送ってもらったけど、何もする気にならなかったの。ましてや、被爆したときのことをいろいろ書かなくてはいけないので、思い出して具合が悪くなってしまったので。
 でも、うつ病の治療のために精神科に入院していたとき、乳ガンが再発したのがわかって、8月に手術を受けました。今度は、お乳を全部切りました。こんな年になっても、お乳がなくなると、とても寂しい。
 医療特別手当を受けられたら、年金とあわせればなんとか生活できると思います。そうしたら、生活保護を断りたいと思っています。私がこんな生活をはじめることになったのは、長崎の原爆のせいだから。それがあたりまえだと思っています。

2011年「東友」10月号から

娘のガンは私の被爆が原因ではないかと思い、夜も寝られなくなりました。

 88歳(被爆当時22歳)。男性。広島市3キロ被爆。広島から上京。被爆二世の娘についての相談。

 私は戦後ずっと広島で暮らしていましたが、妻が亡くなり、娘が心配するので、東京に出てきました。ところが娘が肺ガンを患い、途方にくれてしまいました。相談にのってほしいのです。
 私は当時医学生で、被爆時に頭や脚に負傷しましたが、8月中旬まで爆心地付近で被爆者の治療活動に参加しました。その直後から脱毛、出血など急性症状に悩まされ、昭和28年頃まで白血球減少症で治療を受けました。
 広島で暮らしている間は、ひどい腰痛などで苦しみました。妻が亡くなり独り暮らしになり、高齢にもなったので、娘の誘いもあり東京に出てきました。東京に来てからは、病院に行ってもどこも悪いところはないといわれるほど体調も良くなっていました。
 ところが、今年になって娘が肺ガンと診断され、他にも転移している可能性があるといわれたのです。私の被爆が原因ではないかと思い、夜も寝られなくなりました。娘はまだ何の手続きもしていません。

2011年「東友」9月号から

被爆したときのことは主人にも子どもにも話していませんが、相談員さんになら…

 73歳(被爆当時7歳)。女性。広島市2キロ被爆。毎月申請する他人介護手当の申請書に同封された手紙から。

 お暑い日が続いています。家の中でクーラーをつけテレビを見ているのが一番しあわせです。
 原爆のテレビや新聞を見ておりますと、断片的にしか覚えていませんが「ピカ ドン」で家はペチャンコ。回りは何ひとつ建っているものはなく、母に手を引かれ、ドンドンそこを離れ、逃げだしました。その日のうちに広島市内を出たのだと思います。
 小学校の校内で亡くなっていく人の乾パンを拾ったことと、裏庭で山のように積み上げた人たちを焼く臭い、その臭いは今でも忘れられません。
 主人は私が被爆者であることは知っていますが、話したことはなく、子どもたちにも話していません。毎月お世話になる相談員さんにならと、ちょっとだけ書いてみました。

2011年「東友」7月号から

制度について調べ、東友会のホームページを見つけて電話をしました。

 広島に被爆者の母親がいる東京在住の被爆二世。健康管理手当と被爆二世の制度についての相談。

 母は被爆者の手当を何も受けていません。「被爆者手帳で医療費が無料になるから助かる」といってますが、制度については全く疎いため、私がインターネットで調べ、東友会のホームページを見つけて電話をしました。
 母は15年前に甲状腺の病気で治療を受けていましたが、今はとくに治療は受けていません。15年前の病気の診断書を書いてもらって健康管理手当は認められるのでしょうか?
 他に大きな病気はないようですが、膝が痛いといっています。そちらの病気で申請を考えた方がよいのですね。広島の医師に相談するように伝えます。
 被爆二世の制度があるとは知りませんでした。私は会社の健康保険に入っていますが、それでも被爆二世の制度は使えますか? いま病気はありませんので、健康診断の方を申請したいと思います。医療費助成は対象になったとき手続きします。資料と申請書を送ってください。

2011年「東友」5月号から

主治医が、原爆症認定制度のことを理解してくれません。

 82歳。女性。広島市1.3キロ被爆。医療特別手当健康状況届について。

 医療特別手当の健康状況届が届き、主治医に診断書をお願いしました。私は皮膚ガンの手術を2006年に受け、2008年に原爆症の認定申請を出しました。3年ごとに「要医療性」を審査されると聞きましたが、今年の8月でガンの手術後5年です。
 現在も半年に1度は検査をうけています。私は看護婦をしていましたので、東京都の説明を読んで、「要医療性」はあると思っていました。しかし主治医は、検査をしていてもガンが再発していないので、診断書の「要医療性がない」という方にチェックをつけました。医師は、診断書は「医師としての判断で書くものだ」と、原爆症認定制度のことを理解してくれません。
 東友会から皮膚ガンでの通院の状態がわかれば「要医療性」の証明になると聞き証明書をお願いしましたが、それもまだ出してくれません。東京都が今年から説明の手紙を作ってくれたと聞きましたが、読んでいないようで困っています。

2011年「東友」4月号から

連日のニュースに、65年前の体験をまざまざと思い出しています。

 79歳。男性。長崎入市。原子力発電所の事故報道に「あの日」を思い起こして。

 3月11日の大地震・巨大津波をきっかけにした東京電力・福島第一原子力発電所の事故で、放射性物質が外部に漏れ、放射線の脅威や周辺の人びとの避難などが連日報道されています。
 私は、昭和20年8月10日、長崎に原爆が投下された翌日の午前中から母と妹の安否を尋ねて入院先の長崎医大付属病院に行き、母の遺体を見つけました。妹は行方不明。12日まで各地の避難所や死体収容所を探し回りました。
 市内には無残な死体がころがり、破壊され焼け焦げた家屋の残骸が広がっていました。「助けて」「水をください」のうめき声に耳をふさぎ、己の無力さを感じながら通り過ぎました。
 原爆炸裂後24時間以内に爆心地より500メートルから1000メートルの地域に入り、半袖シャツで母と妹を探して歩き回りました。今にして思えば、相当な放射線を受けたと思います。よくぞ生きてこられたと思います。連日のニュースに、65年前の体験をまざまざと思い出しています。

2011年「東友」3月号から

広島の3.6キロの場所の被曝線量は何ミリシーベルトなのですか。

 年齢不明。女性。広島3.6キロ被爆・直後入市。放射線の影響について。

 広島の3.6キロの場所の被爆線量は何ミリシーベルトなのですか。私は直後に、身内を捜索するために入市もしています。大震災による福島原発の事故で放射線の影響についてテレビや新聞が大きく取り上げているので、聞きたいと思って電話しました。
 私は原爆症認定申請を却下されました。申請病名は01年に手術を受けた子宮ガン。その後は再発していません。
 放射線の方(起因性)ではないのですか。厚労省からの通知には、おっしゃるとおり「要医療性」で却下すると書いてあります。だって、手術を受けた頃は、この制度は知りませんでした。母が同じ病気で申請して認定されたので、申請してみました。
 東京に来たころ、病院で被爆者手帳をだして診察を受けようとしたら、「あなたを診察できない」と医師や看護婦が壁のように私の前に立って、外に追い出されました。そんな思いをしているのに、手術と申請の時期の問題で「なぜ」と思います。

2011年「東友」1月号から

助けてください。もうどうしたらいいか分かりません。

 78歳、男性、長崎被爆。原爆症認定申請について、妻からの電話。

 助けてください。主人は1月に胃ガンの手術で入院してからボケが出たようで、つじつまが合わない話をしたり、物忘れが増えて困っています。私は週3日、車で迎えに来てもらって人工透析を受けるようになってから気力がすっかり衰え、ヘルパーさんを頼りに、年寄り夫婦だけで暮らしています。
 6月に「東友」を見て電話をしたら、主人は長崎の平戸小屋町で被爆しているので胃ガンを原爆症と認定されると教えてもらいました。お医者様に書いてもらう書類は8月にもらっていますが、ぐずぐすしている間に4カ月も過ぎてしまいました。この書類は使えますか。
 主人は申請書の住所を書くこともできなくなりました。私も気力がなくて字が書けません。ヘルパーさんに頼みましたが「難しい」と尻込みをされています。
 東友会からは、申請書の名前や住所だけでなく、主人が被爆したときの状況を書いた書類をつけて出した方がいいと聞いていますが、主人は「被爆したころのことは覚えていない」と言います。もうどうしたらいいか分かりません。