被爆者相談所および法人事務所
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「相談電話のこえ」 2006年

2006年「東友」12月号から

ガンの治療を受けていますが、できる限りの時間を自宅で過ごしたい。

 74歳女性。広島被爆。自宅療養についての相談。

 ガンの治療を受けていますが、できる限りの時間を自宅で過ごしたいと望んでいます。
 私は、5年前に乳ガンが見つかり原爆症の認定(医療特別手当)を受けています。現在、抗ガン剤治療を受けていますが、苦しいだけで効果があまりありません。医師は、はっきりとは言いませんが、全身にガンが転移しているようです。医師にはもう抗ガン剤治療はやめて欲しいと言いました。
 病院からは緩和ケアの病院への入院を勧められました。けれども、病院のベッドの上でポツンと一人で死を待っているのもしゃくです。
 でも、自宅での療養は家族に負担をかけてしまうのではないかと考えると、入院していた方がよいのかな…〟とも思ってしまいます。
 自宅で介護を受けて暮らしていくための準備はまだ整えていません。少しでも穏やかに自宅で暮らしていくために、どのような方法があるのか、あれこれ考えています。

2006年「東友」11月号から

私のガンは原爆が原因でないと国が言う証拠はどこにあるのですか。

 76歳女性。長崎被爆。原爆症認定申請についての相談。

 被爆者団体の役員をしている友だちから「13万円の手当(原爆症と認定されると受けられる医療特別手当のこと)が受けられるから、電話をしてみなさい」と言われのに…。どうしてダメなのでしょうか。
 去年9月、大腸ガンの手術を受けましたが、今年3月に副腎に転移していると言われました。いまは何度も入院して、抗ガン剤の治療を受けています。
 被爆者手帳には2.5キロの被爆と書いてありますが、ほんとうは2.2キロです。腕や顔にはヤケドをして、眉毛も焼けて落ちました。戦後は、すっかり弱い身体になって、結核にもかかったりして、苦労しました。
 いま娘と二人暮らしでとても苦しい生活をしています。こんな親がいるから、娘はおしゃれもせずに、夜遅くまで働いています。
 それなのに、私のガンは原爆が原因でないと国が言う証拠はどこにあるのですか。教えてください。

2006年「東友」10月号から

ほとんど無料だった入院費。転院先を探すよういわれたが何万円もかかると…

81歳男性、広島被爆。妻から転院先の費用について相談。

 療養型の病院に転院することになりました。被爆者手帳を持っていても、そんなに費用がかかるのでしょうか。
 3カ月前、水も飲めないがんの末期で「1カ月の命」と言われ、ホスピスに入院しました。そこでは点滴も薬もなく静かに看取るつもりでした。ホスピスに移ってすぐ、本人が「水を飲みたい」というので少し飲ませたところ飲んだのです。その後、治療はしていないのに顔つきまで良くなってきました。主治医の先生も「信じられないが良くなっています」と言いました。
 ところが、ホスピスは末期患者しか入院できず、ベッドが空くのを何百人も患者さんが待っているので、自宅に帰るか転院先を探すようにと、病院から言われたのです。
 せっかく良くなっているのに、私は高齢なので自宅で看護することはできません。今までは被爆者手帳のおかげで入院費はほとんど無料でした。これからは転院すると、何万円もお金がかかると説明され困っています。

2006年「東友」9月号から

収入は増えないのに、保険料だけ増えるのは納得できません。

71歳女性、長崎被爆。介護保険料についての相談。

 介護保険料が急に高くなりました。役場と交渉して安くしてもらうことはできないのでしょうか。
 介護保険料として3カ月分で1人6700円の請求書が届きました。収入は、夫がアルバイトで細々と稼いでくる月5万円だけで、2人とも年金はありません。
 夫とは、これまでも一緒に暮らしていましたが昨年やっと籍を入れ、いまは都心から夫の故郷に帰って2人暮らしをしています。夫は被爆者ではありません。古い家があるので部屋代は払わなくてよく、小さな庭に野菜を栽培して食事代も切りつめて生活しています。でも、これから夫の医療費も高くなると聞きました。介護保険だけでなく医療保険料もだんだん高くなると役場で言われました。
 生活保護をすすめられましたが、夫は「働ける間はお上の世話になりたくない」といやがっています。収入は増えないのに、保険料だけ増えるのは納得できません。

2006年「東友」8月号から

1日数百円での生活。こんな生活でも人間としての誇りは失いたくない。

 66歳男性。広島・東蟹屋町で被爆。これからの生活に不安を感じて。

 私はいま1日数百円の生活をしています。
 広島で高校を出て何年間か新聞社に勤めたものの体力的に限界を感じ退職。職を求めて上京しました。いろんな仕事をしましたが、疲れやすく、休んでいるのが見つかると首になりました。年をとるにつれ工事現場の補助の仕事しかなく、1日1000円か2000円の報酬。食事代や宿舎代の名目で天引きされ手元には数百円しか渡されません。仕事がないときは空き缶拾いをしています。衣類や靴は死んだ人の物などを1つ数十円で買います。
 住民票のある区役所に相談に行ったことがあります。滞納分200万円程を払えば国民年金ももらえるし、健康保険証も発行される、ちゃんと働かないのが悪いと馬鹿にしたように言われ、頭にきて帰ってしまいました。
 被爆者の手当はもらっていません。原爆の影響で子や孫に影響があるといわれ結婚もしませんでした。こんな生活をしていても人間としての誇りは失いたくありません。

2006年「東友」7月号から

救援に従ったためにC型肝炎になったのでは。原爆症と認定されるでしょうか。

 64歳女性。長崎被爆。原爆症集団訴訟大阪地裁判決を聞いての相談。

 私は、原爆のとき長崎市の郊外・長与町で救援に従事した親について行って被爆者手帳を受けました。
 戦後は、疲れやすいという感じはありましたが、若かったこともあり、特別な体調の変化は感じていませんでした。
 その後、C型慢性肝炎と診断され、治療をつづけています。原爆のときのことを医師に話したら、「輸血などを受けていないのだから、きっとそのときウィルスに感染したのだろう」と言われました。
 去年、C型肝炎の進行を抑えるためにインターフェロンを使うことになりました。でも私は白血球が少ないので規定量を使えなくなり、肝炎の進行を抑えることができませんでした。このまま肝硬変、肝臓がんと進行すると思うと不安でたまりません。
 いつも足に鉛がついているようで、階段しかない3階の住まいの上り下りがほんとうに大変です。救援に従ったためにウィルスに感染したのかも知れない私に、原爆症認定は受けられるのでしょうか。

2006年「東友」6月号から

介護度見直しで車いすが取り上げられるかも知れません…

 81歳男性。広島入市。介護用品の貸し出しについての相談。

 車いすが取り上げられるかもしれません。使い続けられませんか?
 私は糖尿病や腎不全、肝臓の病気などで治療を受けています。一昨年、脊椎の手術をしましたがよくならず、杖を使っても2~3メートル歩くのがやっとです。手術のあと介護保険の申請をして「要介護1」が認められ、車いすと電動車いすを貸し出してもらいました。おかげで、エレベーターのない団地の5階に住んでいますが、階段の昇り降りだけがんばれば自分の力で外出できるようになりました。
 ところが5月にケアマネージャーから「介護保険制度が変わり要介護1と要支援の人には介護用品が貸し出せなくなり、車いすは9月までで返してもらうことになった」と言われました。介護度2にならないか見直してもらっていますが、どうなるかわかりません。

相談所の対応

 要介護1の人が「電動車いすがあることで自立度が高まる」として認めさせた他県の例を紹介。ケアマネージャーとともに役所と交渉するように助言しました。

2006年「東友」5月号から

心臓の病気があり一人で買い物もできないのに、「要介護」から「要支援」に

 81歳の女性、独居。広島被爆。ケアマネージャーからの相談。

 私が担当している被爆者の方が介護度の見直しで、「要介護1」から「要支援2」に変更されました。ヘルパーの時間を減らさなければなりません。被爆者の制度で何とかできないでしょうか。
 この人は、心臓の病気があって、少し動いただけでもゼイゼイするようになります。一人で買い物もできず、家事も無理することはできないのですが、病気のことは介護度の見直しにほとんど加味されなかったようです。
 今までの生活介護から介護予防サービスになったために、日常生活は自分でできるように援助することがヘルパーの仕事になります。ヘルパーはとても張り切っているのですが、病気のことを考えると、かえって状態を悪くして、介護度が重くなってしまうのではないと心配です。なんだか納得できません。

相談所の対応

 「他人介護手当」を申請して認められれば自費のヘルパーを入れても費用が限度額までは返してもらえると説明。本人と相談してもらうことになりました。

2006年「東友」4月号から

原爆でこんなに苦しんでいる人がいると国に知ってほしいと思っていたのに…

 82歳男性。広島被爆。4月1日肺気腫のため死去。原爆症認定のお世話をしていた地区の会役員からの電話。

 4月の原爆症認定第2次集団申請に間に合わせようと思って、被爆したときのことから、戦後のことを聞きました。広島市宇品の逓信講習所の舎監室で被爆したそうです。4キロも離れた場所だったのに、上半身にたくさんのガラスの破片が刺さってケガをしたそうです。その後も宇品にとどまり、中心地に入って救援や死体処理もしたので、直後から下痢や下血、両足に赤い斑点が出たりして苦しんだと聞きました。
 2年前、肺炎にかかって入院したとき胃ガンが発見されましたが、肺気腫の進行が激しいので、手術を受けられず、「死ぬのを待つだけだ」と言われていました。20年以上も、肺気腫で苦しんでいました。いつも息苦しそうで、話を聞くのも大変でした。
 原爆症認定を出しても認められないことは分かっていましたが、原爆のために、こんなに苦しんでいる人がいることを、国に知ってもらいたいと思って書類を整えていたのに、残念です。

2006年「東友」3月号から

介護度見直しで「要介護1」から「要支援」に。介護ベッドを返すようにと…

 65歳女性。広島被爆。介護保険の見直しについての相談。

 介護用ベッドを返すようにいわれています。今まで要介護1でしたが、見直しで「要支援」と認定されてしまったのです。
 私は10年前に心臓の手術をし、その後糖尿病やガンにもかかり、一昨年には脳梗塞を起こし左腕が思うように使えません。立ち上がるのもベッドからでないとできません。以前は自分で買ったベッドを持っていましたが、10年前に役所から介護用ベッドを使った方がよいといわれ、これを処分して介護用を借りたのです。それなら以前のベッドを返せといいたいです。
 ヘルパーの時間も減らされました。これまで週1回3時間、買い物と入浴介助をしてもらっていましたが、2時間に減らされ、入浴介助は受けられなくなりました。一人では不安です。先日も浴槽の中で滑っておぼれそうになりました。ヘルパーも元に戻してほしいです。
 ケアマネージャーに相談して介護度の見直しをしてもらいたいと思います。それに別居している娘に介護手当の事などを説明してこれからの介護のことを相談してみます。

2006年「東友」2月号から

私が死んだら一人の被爆者の歴史が忘れ去られることが不安で…

 被爆二世、39歳、男性。母が広島・南観音町で被爆。健康診断受診票の申請の相談。

 被爆二世の健康診断受診票申請を決意しました。
 母は24年前、私が15歳のとき他界しました。それまで健康に問題があるようではなかったのですが、1981(昭和56)年の夏、ガンであることが判明し、余命数カ月と診断されました。当時私は高校受験中でした。母は心配をかけまいと思ったのか、それから数カ月間がんばりましたが、私の合格を聞いて数日後に病院で死亡しました。母は生前、私が幼かったためか、思い出したくなかったのか、被爆体験をまったく話しませんでした。
 また、胎内被爆した母の弟(叔父)は10年ほど前に膠原病で入院し、薬の副作用で頭髪がすべて抜け落ち容貌もすっかり変わってしまったことがありました。
 母や叔父の姿を思い出し、私自身の健康に不安を感じます。私が死んでしまったら一人の被爆者の歴史がこの世からまったく忘れ去られてしまうことにも不安を感じ、被爆二世の申請をします。

2006年「東友」1月号から

夫が緊急入院、空きがなく一日10万円の部屋に。部屋代は返ってこないんですか。

 88歳男性。広島被爆。妻から病院の部屋代についての相談。

 年末に緊急入院しました。部屋が空いていなくて一日10万円の部屋に入れられました。12月だけで105万円請求されました。この先とても不安です。部屋代のお金はまったく返ってこないんですか。
 夫は半身不随です。介護度は5です。車いすに座ることがやっとできますが、認知症も少しあるといわれています。
 自宅では、いつも誰かついていないといけません。以前は私が介護をして家族介護手当をもらっていました。でも私も高齢なので人の力を借りなければ介護を続けることができなくなりました。去年から、他人介護手当に切り替えてもらい、介護保険のヘルパーと、自費の家政婦紹介所からの介護人に来てもらっています。この費用もたいへんでしたが、他人介護手当が重度で認められていましたので何とかがんばってこられました。
 入院中も介護の人に来てもらうことになっています。でも入院中は介護手当はもらえないんですよね。
 夫は、原爆を受けてもこれまでがんばって生きてきたのに、「もう生きていたくない」と言います。つらいです。
 病院には、安い部屋が空きしだい移してもらえるようにお願いしてみます。