被爆者相談所および法人事務所
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「相談電話のこえ」 2002年

2002年「東友」12月号から

診断書の記入内容が不足していると都庁から連絡が

 広島被爆。女性。当時18歳。変形性脊椎症で健康管理手当の更新申請中。

 健康管理手当の診断書の記入内容が不足しているって、都庁から連絡ががきたんですが…。「日常生活の動作障害」って何ですか。お医者さんに、どうお願いしたらいいんですか。
 レントゲンをとると私の腰骨は曲がっていて、ひどいトゲのような変型があります。起きるのもつらくて、痛み止めを欠かせないときもあります。
 この手当は、「健康管理」手当ではなく、「病気」手当扱いにされているから、ちゃんと通院しなさいって聞いていたし、痛みがひどいから、治療をサボったことはほとんどないのに。ウワサどおり、すごく難しくなったんですね。

2002年「東友」12月号から

難病医療費助成の制度が変わり困っていました

 父親が広島市で被爆。被爆二世。男性。56歳。非ウイルス性慢性肝炎・肝硬変で治療中。

 長年、肝臓病の治療を受けてきました。肝炎は今、ほとんどB型かC型肝炎だそうですが、私は肝炎の患者全体の5%くらいと聞いている、ウイルス性でない肝炎です。
 これまで東京都の難病医療費の助成が受けられて、たいへん助かっていました。しかし、9月から慢性肝炎と肝硬変が指定をはずされて、医療費の助成が受けられなくなり、困っていました。
 私は病状が肝硬変にまで進んでいるので、MRIの検査など、治療費だけでなく検査費用にも多額の費用がかかります。
 何か制度はないかとインターネットで調べていて、東友会のホームページを見つけました。広島・長崎にもない制度が東京にあることを知り、安心しました。さっそく主治医に診断書をお願いしてみます。

2002年「東友」11月号から

大それた申請かと悩んでもいますが

 長崎3.8キロ直爆。翌日から2・3日、家族に連れられて中心地に入り親類を捜索。女性。当時7歳。8月に甲状腺機能低下症で「原爆症」認定集団申請に参加。

 厚生労働省から甲状腺の検査の最近のもっと詳しい資料を求められました。主治医に頼んだら、イヤな顔をしながら検査をしてくれました。
 私のような遠くで被爆した者が、大それた申請を出したのではないかと悩んでいます。でも、被爆前はとても健康だったのに、被爆直後から半年間、傷のない両腕に次々に黄色のオデキができて化膿したのがきっかけで、小さな傷が化膿して治らない状態が今もつづいています。白血球数減少症もあって、治療をつづけていても3000台、治療をやめたら2100に落ちたりして悩んでいます。
 こんな気持ちを姉たちに話したら、「東友会の人が言うとおり、みんなのためなんだから、がんばりなさい」「もっと、親切な病院があるから聞いてみなさい」と言われました。
 57年間、被爆者として何かしたことはありませんでした。でも申請を決意した8月に、市役所で出島会長さん(三鷹)の被爆のお話を聞きました。私より一回りも年上で、同じ病気で苦しんでいる人が被爆者としてがんばっているのに、恥ずかしいと思いました。
 会長さんに電話をして親切な病院を紹介してもらいました。私は会長さんのようにじょうずにはできないけれど、いつかは被爆証言をして、がんばらなければと思いました。

2002年「東友」10月号から

私たちの人生の重みをかけて申請を

 広島市横川町0.6キロで被爆。女性。当時18歳。12月の第3次「原爆症」集団申請に参加予定。

 「えっ、あなたが『原爆症』の認定を受けていないの」。被爆者の制度のことを知っている人から、至近距離で被爆した私が「原爆症」の認定を受けていないことを知ると、驚いたようによく言われました。
 私は18歳のとき、いまの広島球場のあたりにある広島中央電話局で被爆しました。鉄筋コンクリートの建物の中だったから助かったけれど、屋外にいたら真っ黒焦げで死体もわからなかったところです。
 頬がL字型に裂けてぶら下がっていたり、顔全面と上半身に今もケロイドになった傷跡が残る大ケガをしました。命があやぶまれるような急性症状も出ました。18歳で生まれもつかない傷だらけの顔になった苦しみを、誰にもぶつけられずに生きてきました。ぶらぶら病やうつ病にもかかり、50年すぎてから突然、大量の出血とともにガラスの破片が出てきたこともあります。
 孫が生後4カ月で血液の病気にかかったときは、「何で結婚なんかして、子どもを産んだのだろう」と悩みました。その孫の子ども・曾孫が生まれたときも、とても不安でした。
 裁判に立ち上がるみなさんに励まされて、思い切って甲状腺機能低下で診断書をお願し、ずっとあきらめてきた「原爆症」認定申請を出すことができます。こんな思いで生きてきた私たちの人生の重みをかけて、私もがんばりたいと思います。

2002年「東友」8月号から

 7月9日の原爆症認定集団申請以後、運動に励まされて東京でも7人が申請を出しました。このうち2人の被爆者の「申述書」の一部を紹介します。

1985年から薬を欠かすことができない生活になり…

 長崎市大浦町3.8キロで被爆。女性。当時7歳。16年間、甲状腺機能低下で治療を受けている。

 1985年から薬を欠かすことができない生活になりました。そのときから、原子力発電所の事故や核実験場周辺の被害のニュースで子どもたちが甲状腺の病気にかかっていることを聞くと、私も同じだと思ってきました。
 制度は知っていましたが、私のような被爆距離では、翌日から中心地に入っても認定されないとあきらめてきました。しかしこのたび、多数の被爆者が集団で申請したことを知り、私も参加したいと思いました。
 あのとき、長崎にいたというだけで、人生を狂わされ、先の見えない闘病生活を続けています。

基準の厳しさから申請をあきらめてきたが

 広島市大手町1.2キロで被爆。男性。当時12歳。7年間で5回、7カ所の皮膚ガンを手術。

 長年健康に不安を持ってきた上に、皮膚ガンの手術を受けてからは、転移への恐怖を抱くようになりました。そんなときに制度を知りましたが、申請方法の難しさや基準の厳しさからあきらめてきました。しかしこのたび、相談所のお世話で手続きができたことに、たいへん満足しています。
 犠牲になられた方がた、被爆者としていまも不安な日々を送っておられる方がたへの行政の対応が前進することを切望します。

2002年「東友」7月号から

私も、原爆症認定申請を

 7月22日、東友会に「原爆症認定の申請をしたい」という8人の被爆者の相談が寄せられました。これまでは、「無理だろう」とあきらめていた人ばかりでした。

原爆症認定申請を希望する8人の方
地区名とイニシャル申請病名被爆状況被爆時年齢備考
狛江市KS子さん 甲状腺機能低下症 長崎2.0キロ直接被爆8歳
三鷹市HN子さん 甲状腺機能低下症 長崎3.8キロ直接被爆7歳白血球減少で長期間苦しんでいる
板橋区CS男さんボーエン病(表皮内ガン)広島1.2キロ直接被爆12歳背中、鼻、耳、右上腕に次々発生した腫瘍を手術で切除
港区KA男さん食道ガン広島4.0キロ直接被爆。直後から中心地で救援作業に従事。25歳
国立市TT男さん胃ガン・前立腺ガン広島4.0キロ直接被爆。当日午後からほぼ1週間、中心地で救援作業を指揮
国分寺市HK子さん胆管ガン広島1.2キロ直接被爆13歳現在入院、化学療法中
港区AK子さん肝細胞ガン(C型)広島3.4キロ直接被爆14歳7回も肝臓に直接、抗ガン剤を注入
中野区EK子さん肝細胞ガン(C型)広島3.0キロ被爆。当日から中心地で捜索14歳

 後日送られた、中野区EK子さんの「あの日のあと」と題する被爆記録の一部を紹介します。

 兄を捜して広島市内を歩き回りました。子どもの亡骸を抱きしめ放心状態の母親の列、血だらけの青年が歩いてくる。私は思わず救急法で習った止血をしてあげる。
 防火水槽にセーラ服の少女が顔を突っ込んでこと切れています。馬も腹を膨らませて死に、まさに凄絶の極みでした。
 人が人になす業として絶対許されないこと。14歳の私は街の惨状をつぶさにみました」

2002年「東友」6月号から

悪性リンパ腫が脳に転移しているが、たたかいたい

 広島市二葉の里(爆心地から1.7キロ)で直接被爆。男性。当時4歳。悪性リンパ腫で出した原爆症認定申請が却下される。

 杉並区に住む友人が原爆症の認定を一度却下され、東友会のお世話で、今回再挑戦すると聞きました。
 私は1月に原爆症認定申請が却下されました。1999年11月、58歳のとき、鼻の近くに悪性リンパ腫が発見されました。それから3年半、リンパ腫は脳に転移しています。このため、鼻づまり、出血、ボケ、記憶喪失、躁鬱(そううつ)、頭痛、下痢、味覚障害、聴力障害、全身倦怠感、関節痛、歯痛、ふるえ、体温調節不良で苦しんでいます。
 こんな症状に負けそうになりますが、元気ぶってがんばっているので、人目には元気に見えるようです。自分自身との闘いです。
 あと5年くらいの命だと覚悟しています。脳に転移しているので、いつまで戦えるかわかりませんが、私もぜひ7月9日の集団申請に参加させてください。

原爆症認定の現状

 厚生労働省が「原因確率」を使って審査を始める以前、東友会をつうじて出した「悪性リンパ腫」での原爆症認定申請は8例、うち認定は以下の3例です。この事例をみても、「原因確率」を使った審査が、以前より厳しくなっていることが明白です。

「悪性リンパ腫」で原爆症認定申請し認定された3例
申請年月被爆時年齢被爆状況性別
2001年2月23歳広島1.3キロ直爆女性
1995年11月15歳長崎1.2キロ直爆男性
1993年10月32歳広島2.1キロ直爆男性

2002年「東友」4月号から

弟は4歳のままです

 広島市観音国民学校で被爆。女性。12歳。2月に卵巣ガンで手術。原爆症認定申請のため申述書の聞き取りから。

 学校から帰っても、友だちと遊んだ記憶がありません。4歳だった弟をおんぶして、近所の神社の境内などで、毎日、遊んでいました。母は乳飲み子の弟がいて忙しかったし、4歳の弟を養子にほしいという話もあって、私が一緒にいないと、いつ連れていかれるかと思って不安でしたから。
 8月7日の朝、五日市で弟と再会できたとき、それは嬉しかったです。私が学校にいることを知っていて、誰も迎えにきてくれないし、自宅のあった河原町は火の海でしょう。みんな死んでしまったと思っていました。
 7日から、ヤケドをした弟をおんぶして、父と姉、10歳だった上の弟を母と一緒に捜し回りました。暑くて、暑くて…。背中の弟が「姉ちゃん。おぶちょうだい」って、何度も何度も言うんです。やっと聞き取れるくらいの声で。でも、母がヤケドをしているから飲ませるな、というので。水をやれなかっんです。
 10日の朝、弟は死んでしまいました。あんなに早く死ぬなら、水を飲ませてあげたかった。ずっと後悔しています。私には、弟は4歳のままです。自分がこんなにお婆さんになってるのに。

S子さんのこと

 被爆当時のS子さんの家族は、祖母と父母、姉と弟3人の8人。陸軍病院に勤めていた父、通学中だった姉、自宅の近くで遊んでいたの上の弟は帰ってきませんでした。遺骨があったのは、乳飲み子だった下の弟だけ。18日に祖母が、31日に母が亡くなり、S子さんだけが生き残りました。

2002年「東友」3月号から

100メートルの違いで…

 3月8日、東友会に、2人のかたの原爆症認定申請の結果が届きました。
 通知が届いた2人はともに病名が大腸ガンで広島被爆。距離は100メートル違うだけでしたが、100メートル遠くで被爆した人は、黒い雨を多量に浴びていても、13歳若くても却下されました。この二人が出した「申述書」の要旨を紹介します。

「認定」:S子さん

 当時27歳。広島市平塚町1.6キロで直接被爆。原因確率20%。2001年7月31日申請。1週間後の8月7日死去。(夫から聞き取り)
 自宅の2階で、開けはなした窓から原爆を受け、左腕、左顔面に深い火傷を負いました。その後、比治山に避難し、2日2晩野宿し、3日目に熊野町に避難しました。
 2001年6月から食欲が極端に減少したのでG大病院に入院し、手術を受けました。開腹しましたが、大腸ガンが大きく広がっていたため、切除できませんでした。その後2週間で危篤になりました。気管切開され、会話をすることができませんので、被爆直後の急性症状は不明です。

「却下」:M男さん

 当時14歳。広島二中1.7キロで直接被爆。原因確率9%.。2001年6月20日申請。
 校舎の下から這い出し自宅に戻る途中、高須あたりで大量の黒い雨を受けました。 はっきりした記憶はありませんが、歯茎の出血が3カ月位続いたのを覚えています。
 2001年3月、K大病院で直腸ガンの手術を受けましたが、傷が治るのに2カ月もかかりました。 主治医は、「被爆のために発ガン率が高まり、吻合不全も治癒能力が低下しているためだと思う」と話されています。

2002年「東友」2月号から

戦後は、原爆後遺症への恐怖との闘いでした

 男性61歳。広島市白鳥で直接被爆。昨年(2001年)12月に胃ガンを手術。原爆症認定申請の「申述書」から。

 被爆当時4歳でしたので、当時の記憶はほとんどありません。母はすでに他界しています。 原爆投下のとき、まわりが見えなくなったような記憶だけがあります。建物の下敷きで生き埋めになっていて助け出されたそうです。母に手を引かれて、線路伝いに走ったり、橋を渡った記憶もあります。まわりは一面火の海で、空は煙で暗かったことを覚えております。 その後、下痢、発熱、脱毛が続き、いつもぐったりしていたそうです。
 戦後の私の生活は、原爆後遺症への恐怖との闘いでした。 少しでも無理をすると熱が出たり、脂っこいものや刺激の強いものを食べると下痢をするので、体に良いと言われる健康食品を買い、健康には十分過ぎるほど気を配り、規則正しい生活を送ってきました。その結果、特別な病気にかかったことはありませんでしたが、突然に胃ガンとの診断を受け、手術を受けました。私のガンと原爆の放射線について主治医は、「因果関係を否定できない」と診断されています。

補注

 厚生労働省は、原爆症認定申請の基準としている「原因確率」の被曝線量を、最高裁も疑問視した「DS86」で推定しています。
 この被爆者の推定被曝線量は、「DS86」では、遮断物がない場合で33センチグレイ。これを厚生労働省の「原因確率」表(病名別、当時の年齢ごとの一覧表にされたもの)から引き出すと、3.3%となります。
 厚生労働省は、「原因確率」が10%以下の場合、疾病と原爆放射線との関係はないと判断しますから、1.6キロで直接被爆したこの被爆者は、申請を「却下」される可能性が高いということです。

2002年「東友」1月号から

C型肝炎で原爆症認定申請をします

 男性73歳。長崎市平戸小屋町で直接被爆。C型肝炎で長期闘病中。

 裁判をしてでも国の原爆症の認定基準を変えさせたいという被爆者が、東京だけで20人近くもいるなんて。私も一緒に申請させてください。
 妻が昨年10月に胃ガンで原爆症と認定されたのも東友会のおかげです。たまたま板橋の被爆者の会の集まりに出席したとき、「長崎市西山3丁目なら、たぶん医療特別手当を受けられますよ」と教えてもらって、手術から5年目が目前だったのに、申請してから4カ月で認定されました。でも、妻より私の方が具合が悪くて困っています。私も妻も被爆距離は同じ2.5キロです。肝臓はすっかりダメになっていて、毎日、病院にでかけて点滴を受けています。とにかく疲れやすいしフラフラするので、一人では通院できません。今はただ生きているというだけ。何の楽しみもありません。
 被爆者にはC型肝炎にかかっている人がとても多いのに、「C型肝炎はウイルスのせいだから原爆とは関係ない」と言われて、健康管理手当の更新だってできないでしょう。私は5年前は肝臓で健康管理手当を受けられのに、おかしいですね。
 あずま数男かずおさんの裁判は、同じ長崎の被爆者で年齢も近くて、関心を持っていましたが、応援できなくて心苦しく思っていました。私の病状で原告になることは無理だと思ってきましたが、20人もの人と一緒なら、やれると思います。