被爆者相談所および法人事務所
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世界に届けたい被爆者の証言・訴え

2022年6月ウィーン、同8月ニューヨークでの発言から

 2022年6月に核兵器禁止条約の第1回締約国会議がオーストリア・ウィーンで、8月にNPT(核不拡散条約)再検討会議がアメリカ・ニューヨークで、それぞれ開催されました。日本から被爆者の代表が参加し、それぞれの地で証言や訴えをおこない、世界各国から参加した人びとに大きな感銘を与えました。それぞれの会議の様子は本紙453号(2022年7月)と455号(同9月)でお伝えしましたが、ここでは各会議に代表派遣された日本被団協代表理事の家島昌志さん(東友会代表理事)と日本被団協事務局次長の濱住治郎さん(東友会執行理事)が現地で発言した内容を紹介します。

私の訴え ――核兵器禁止条約第1回締約国会議に寄せて――
家島 昌志 (広島被爆)

 本年2月、ロシアが突然ウクライナに侵攻して3カ月が過ぎました。核兵器の使用も辞さないと恫喝するロシアの姿勢は、人類にとって新たな危機をはらんでいます。半径5キロメートルの都市をせん滅する程度の「小さな核兵器」でも、私たち広島・長崎の被爆体験者にとっては許しがたい悲劇を生み出す兵器なのです。
 2017年7月7日に122カ国の賛成により国連で採択された核兵器禁止条約は、2021年1月22日に発効するに至りました。私たち被爆者にとっては、長年の悲願である核兵器廃絶への道が開けたものとして無上の喜びを感じました。これをもって直ちに核兵器廃絶が成るわけではありませんが、大きな前進であることは確かです。
 しかし、核兵器保有国およびその同盟国は条約に参加しておらず、廃絶までの道程にはまだ大きな困難が待ち受けています。これを打開するのは容易ではありませんが、コロナ禍のために延期されていた核兵器禁止条約の第1回締約国会議が開催されることは、核兵器廃絶を願う私たちにとって大きな喜びです。
 そもそも、広島・長崎型の1000倍を超えるような威力をもった核兵器が戦闘に使えるわけもありません。東西両陣営で4000発もの核弾頭が直ちに発射できるような態勢にある中、これを撃ち合えば即人類の破滅へとつながることは明らかです。核兵器は決して人類と共存できない兵器なのです。
 核兵器廃絶は、国連創設時からの大きな目標でした。東西の冷戦と米露の核軍拡競争やNPT体制を無視した国々による核兵器開発などもあって、条約発効にこぎつけるまでに長い時間を要しました。いまや核兵器は、開発も実験も所有も移送も、これをもって威嚇することも、すべて国際法違反となるのです。
 核兵器禁止条約には、被爆者の苦悩や訴えに配慮したという前文の記述もあります。ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などのロビー活動が条約採択の促進力になったと思いますが、被爆者が世界中の人びとに向けて悲惨な被爆体験証言を発信してきたことが大きな力になっているという識者の評価は、私たちを勇気づけます。また、それを受け入れてくれた世界の友好団体や仲間たちには深く感謝いたします。

 広島に原爆が投下された当時、私は3歳1カ月になったばかりで、ほんの断片的な夢のような記憶しかありません。自宅は広島市北部の牛田町という爆心地から2.5キロ地点にありました。爆風で家中のガラスは吹き飛び屋根がめくれて月が見える状態だったと言います。
 原爆投下の朝、私は家の玄関の土間で遊んでいたそうです。恐らく爆風で吹き飛ばされたのでしょうが奇跡的に無事でした。母は玄関わきの日当たりのよい部屋にいたそうですが、体中に爆風で飛び散った窓ガラスの破片が刺さったそうです。たまたま近所にお住まいの看護婦さんに手当してもらったと言います。生後10カ月の妹は布団袋の陰に寝かされていたために無事でした。父は、爆心から1.2キロメートルの広島逓信局の屋上で空襲警戒の夜警当番を終え帰宅し、2階で仮眠中でした。階下まで吹き飛ばされたものの無事でした。
 しかし父は、前夜から我が家に泊まっていて原爆投下の朝入営した親戚の新婚夫妻のことが心配で、爆心地に近い西練兵場へ出かけました。兵隊たちは黒焦げで見分けがつかず、あきらめて帰宅する途中に大やけどをして道端に倒れている夫人の方を見つけました。農家から大八車を借りて運び、近所の看護婦さんから分けてもらったチンク油を塗って手当したそうです。彼女は首から胸まで広がるケロイドのため、夏になると暑い暑いと言っていました。再婚して生まれた子どもには障害がありました。彼女は被爆から25年以上を経て甲状腺がんで亡くなりました。
 後の報道によれば、マンハッタン計画を遂行した当事者たちは、核爆発の威力は承知していたものの、後のちまで尾を引く放射能障害は全く想定していなかったと言います。しかしそれこそが、原爆=核兵器が悪魔の兵器といわれる核心部分なのです。
 広島には75年間草木も生えないとうわさされ、その年の秋、私たち家族は仕事のある父を残して祖父母の住む鳥取県に移住しました。満員列車の窓から乗せられたというかすかな記憶があります。
 姉が二人いましたが、すでに広島から疎開して祖父母のもとから学校に通っていました。翌年、父も転勤希望がかなって鳥取県に帰ってきましたが、被爆から24年を経て上顎がんにより59歳という若さで他界しました。これは明らかに被爆の影響でしょう。
 私自身、被爆から72年を経過して甲状腺がんを患い手術をしました。こんな晩年になって被爆の影響が出るとは思いもよりませんでした。
 唯一の戦争被爆国として、核兵器廃絶に向けた世界の世論をリードすることを期待される日本です。日本政府は耳に心地よい「核兵器廃絶に向けて世界の世論をリードする」という言葉を発するばかりでなく、条約に真摯に取り組んでほしいと思います。

家島さんや通訳の方など、肌の色も異なる9人が、部屋前方に並べられた長机の後ろに集まっている。みな笑顔でカメラのほうを向いている。家島さんら前列の3名は、中央に「ウィーン」表記である「Vienna」と書かれた大きい布を体の前に掲げ持っている。布は寄せ書きで、余白にさまざまな文字で手書きの文が書き込まれている。9人の背後は壁で、大きい電子スクリーンが掛けられている。スクリーンは、写っている人たちとの比較では縦2メートル以上、横4メートル以上にほどに見える。スクリーン内に、「Hibakusya Testimony(訳:被爆者の証言)」「Ieshima Masashi」「Hibakusha - the Atomic Bomb surviver(訳:ヒバクシャ 原子爆弾を生きのびた人)」「Executive Board member, Japan Confederation of A- and H-Bomb Sufferers Organizations(訳:日本被団協理事)」と大きく表示されている。
証言後に贈られた寄せ書きと

私の被爆体験 ――父を想う―― 戦争も核兵器もない世界を願って
濱住 治郎 (広島・胎内被爆)

 私は広島の胎内被爆者です。父が亡くなって77年目を迎えました。父が亡くなった時、母の胎内にいた私は翌年に生まれ、いま76歳です。座敷のかもいにかけてあった父の写真を毎日見て育ちました。被爆者の平均年齢は83.94歳(2021年3月)ですが、私は一番若い被爆者です。父が亡くなったのは49歳ですが、私がその年齢になったとき、兄姉に頼んで6日の行動を書きつづってもらいました。私に被爆の体験がない中で、母の胎内からみた原爆、まだ見ぬ父への想いをより確かなものすることができました。
 父は、1945年8月6日の朝、いつもの通り会社に出かけました。8時15分、人類史上初めての原爆が広島に投下されました。街は熱線と爆風と放射線によって破壊され、市内に住んでいた親戚たちが、爆心地から4キロメートル離れ、倒壊を免れた我が家に避難してきました。20歳になる従兄弟が同じ部隊の全身火傷で重傷の友人をつれてきました。6日、我が家は親戚や家族で30人にもなりました。家族の無事をみんな祈りましたが、いつまで待っても父だけ帰ってきませんでした。
 翌日、母と姉たちは、父を捜しに爆心地から500メートル近くの会社に出かけました。焼けた熱さ、死体の臭い、耐えきれない思いの中で探しましたが、父を見つけられませんでした。翌々日も出かけました。会社の同僚によってようやく消息がわかり、焼け跡から、父が身に着けていたバンドのバックル、ガマ口の金具、鍵の三点をみつけ遺品として持ち帰りました。
 父を捜しに行った家族は、2、3日後から発熱・下痢などの症状がでました。従兄弟の友人の傷口にウジ虫がわいていましたが、赤チンやジャガイモの擦ったものを塗るしかなかったそうです。しばらくして我が家で息をひきとりました。従兄弟も3、4日後に発熱。髪の毛が抜ける症状がでて亡くなりました。3歳になる従兄弟も、無傷でしたが20日ぐらいで亡くなりました。身重の母の代わりに作業にでた叔父も3日後に亡くなりました。近所の人たちもたくさん亡くなりました。近くの学校の校庭では、毎日5、6体の遺体を1カ月半くらい焼いたそうです。
 一番上の姉は女学生で16歳、二番目の姉は14歳で、6日は二人とも軍需工場などで働いていました。兄は12歳、三女の姉は9歳で二人とも学童疎開し、広島の近郊のお寺で生活していました。四女1年生7歳と五女4歳は自宅にいましたが、幸いにも子どもたちは6人全員が助かりました。私は翌年2月に生まれました。父が亡くなり、母と7人の子どもが残されました。
 母は、電気の集金の仕事の合間に畑仕事で家計を助け、兄は大学をあきらめ高校卒業後、銀行に勤め家族を支えてくれました。進学・就職などの時に、父がいたらどんな言葉をかけてくれたでしょうか。私は、結婚して子どもを持ったとき、家族の幸せを感じることができました。49歳で人生を終えた父。子どものことも、自分の人生のことも、父なりの想いがあったはずです。私は、父の分まで生きなければと思うようになりました。
 77年たった今も、原爆は被爆者を苦しめています。私たちは、約1万3000発あるといわれる核兵器の恐怖の中で暮らすことを余儀なくされています。私には戦争はまだ終わっていません。父の死は、つい昨日の出来事のように思えるのです。核兵器がゼロになり、その恐怖から逃れるまで、被爆者は安心して死ぬことはできないのです。
 放射能はとくに女性や子どもに大きな影響を与えます。母の胎内で被爆したからといって被害を免れることはありません。むしろ、胎児の無防備な若い細胞にとって、放射線の影響は計り知れないものがあります。
 核兵器が使用されれば、人類は破滅の道に進むことになります。ふたたび被爆者をつくらせてはいけません。戦争は貧困を生み、報復の連鎖は憎しみを増幅します。核兵器廃絶は、人類の生存に関わる課題です。
 2021年1月22日に、核兵器禁止条約が発効しました。核兵器が国際法で違法となりました。被爆者にとって、「核抑止」や「核の傘」の行き着く先は、きのこ雲以外の何ものでもないと思います。核兵器のない青い空の下で、あなたがた一人ひとりの夢や希望が実現できることを願っています。

建物の裏庭のような、壁に囲まれた広い空間に椅子が長方形を描くように並べられている。椅子は内側を向いて並べられていて、そのうちの一つに濱住さんが座って話をしている。椅子に座ったり、その周囲で立ったりしゃがんだ姿勢で、写真に写っている範囲だけでも10人を超える若者たちが濱住さんに顔を向けて話を聞いている。
ドイツの若者たちに被爆証言