被爆者相談所および法人事務所
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被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
第11回 「じっくり懇談」で国会議員に要請

 「被爆50年に国家補償の被爆者援護法を」の声は、国民世論となって拡がっていました。
 1994年5月には、「3点セット」として全国で取り組んだ国会請願署名が814万人分、地方議会の意見書採択は当時の3306自治体中の4分の3にあたる2440に、国会議員の賛同署名も760人中ほぼ65%の議員497人になっていました。
 東友会は「被爆50年を『すべて』を対象にした全員参加の運動で迎えよう」とのスローガンを掲げ、全国の要としての運動を続けていました。東京でも、請願署名は100万の目標にたいして82万人分、意見書採択は65自治体中63に。東京都はもちろん、小笠原村など島嶼の自治体からもすべて協力を得て、都内の二つの区を残すだけに。国会議員の賛同署名は51人中の9割を超える46人なっていました。
 この9割を超える国会議員から賛同署名を集めた運動の仕上げが、名付けて「じっくり懇談」。地元の被爆者が依頼して、30分から1時間の要請を議員に受けてもらう活動でした。
 当時は連立内閣が続き、日本新党、さきがけ、新生党など、新しい政党が乱立。この中で面談が難しかったのが新生党でした。その突破口を開いたのが、当時の東京5区選出の新生党議員との「じっくり懇談」でした。このとき大奮闘したのが、当時東友会事務局次長だった山田玲子さん(現・法人理事、協議会副会長、豊島・豊友会副会長)。何度お願いしても面談に応じない国会議員に地元の区議や都議を通じて要請を重ねて、ついに日程を決め、1994年2月18日に12人が国会事務所に出向いて東京で44人目の賛同署名を獲得しました。これには、原爆死の有様を体験した山田さんの執念を感じました。
 このような要請は各地で広げられ、東京選出51人の国会議員の半数を超える26人と懇談できました。
 この年、6月には細川連立内閣から羽田連立内閣になっても継続していた「被爆者援護法に関するプロジェクト」が「国家補償の見地に立った」との言葉を法律に盛り込むことが報道されました。「国家補償が実現する。これで安心してあの世に行って報告できる」と「生き残ってしまった」という思いに苦しんできた被爆者の多くが、胸をなで下ろしました。
 1994年も、東京、神奈川、千葉、埼玉の首都圏の被爆者団体を中心した毎月の国会議員要請が続きました。日本被団協と「被爆者援護法実現全国ネットワーク」は、さらに全国行動として6月に厚生省前での座り込みや政府・国会要請を、11月には3日間の集会、デモ行進、政府・議員要請などの大行動を展開。この年、東友会の行動参加者はのべ607人になりました。

「被爆50周年をひかえ国家補償の被爆者援護法の即時制定を!」と書かれた横断幕を持つ、行進の先頭に立つ人たち。旗を立てて車道を歩く行進の参加者たちは、こぶしを挙げている。
1994年11月の国会要請行動。先頭には、伊東壯東友会会長や斎藤義雄日本被団協事務局長ら、いまは亡き先人の姿が