被爆者相談所および法人事務所
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被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
第7回 援護法賛同国会議員署名が過半数突破

 1984年11月の『原爆被害者の基本要求』発表と同時期に開始した、被爆者援護法制定国会請願署名、自治体の援護法制定促進決議は、「被爆者全国行脚」のなかで燎原の火のように広がっていきました。
 国民世論の大きな支持を受けて、野党は国家補償の「被爆者援護法案」を毎年国会に共同提出しましたが、毎回審議がおこなわれずそのまま廃案にされていました。しかし、これらの動きに押された政府は、健康管理手当などの所得制限を毎年緩和していました。
 国家補償の被爆者援護法を求める世論は着々と強まっていました。当時も圧倒的な力を持っていた与党・自民党は1985年2月、政調会の通達として自治体の促進決議を妨害する文書を全国に配布。しかし、日本被団協は、生協、原水協、原水禁、宗教者などの多大な支援を受けて、世論を広げていきました。
 10月には、日本被団協が要求してきた原爆死没者調査を厚生省が実施。「国に死没者調査をさせることは、原爆死没者への補償、つまり国家補償につながる確かな道筋になる」と東友会の役員は奮い立ちました。
 立法府である衆参両院を動かすための要請行動が首都圏の各県被団協を中心に毎月100人規模でおこなわれました。日本被団協の「牽引車」と呼ばれた東友会からは、毎月60人から70人が行動に参加し続けました。
 当時、議員会館に入るためには入館カードが必要でした。束ねた厚さが5センチにもなるこのカードを見せて「これだけ要請に来ています」と議員に訴えた髙木留男さん(江戸川)の小柄な背中を思い出します。小坂兵作さん(江東)は、「直爆死した姉の位牌の前で『行ってくるよ』と念じてから国会に来ています」と話していました。ある時、衆院議員会館の廊下で狭心症の発作を起こした小坂さんは、「軽い発作だから少し休めば大丈夫」とニトログリセリンを口に入れながら、要請を続けました。平川清さん(足立)も毎月の行動に欠かさず参加。広島選出の議員の執務室を訪ねたとき、「私たちは『まどうてくれ』と言っている」と訴えていました。それを聞いた当時の田川時彦事務局長が、長崎の被爆者の私(山本)に、「まさに国家補償の意味。広島弁で“元に戻せ、償え”ということです」と力強く語ったことも忘れられないエピソードです。
 1987年11月、全国の被爆者が決起。折り鶴の輪を首にかけた3500人が手をつなぎ、厚生省のある霞ヶ関の一角を取り囲んだ「折り鶴人間の輪」行動を成功させました。霞ヶ関に勤める国家公務員の労組も、昼休みの時間を使って「人間の輪」に加わりました。
 翌88年末から89年の初め、ついに衆参両院議員の「被爆者援護法賛同署名」が過半数を突破。これは、賛同署名をした議員全てが賛成票を投じれば「国家補償の被爆者援護法」が国会で可決・成立する、という快挙でした

1980年代後半、毎月のように国会要請行動がおこなわれました。(写真は、1992年におこなわれた同様の国会要請行動の場面。)