被爆者相談所および法人事務所
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被爆者が国に問うこと 山本英典顧問に聞く
第5回 被爆40年都民運動と全国行脚

 1984年11月に発表された『原爆被害者の基本要求』をすべての被爆者と国民に広げようという日本被団協のよびかけを受けて、東友会はその年末から「核戦争阻止・核兵器廃絶 被爆40年に被爆者援護法の制定をめざす都民運動」を展開しました。
 ここでの思い出は、日本被団協の「被爆40周年国民運動」に対し、東友会は「周」を抜いた「被爆40年都民運動」としたことでした。「『周』は、おめでたいときにつけるものだ。原爆投下はおめでたいことではない」と強調する安藤賢治副会長の提案でした。
 1985年3月4日に那覇、広島、と札幌から日本被団協5回目の「全国行脚」が出発することになりました。集結する東京まで40日間、「行脚」は通過する自治体の首長、議会議長と議員に、衆参両院議長宛の“国家補償に基づく被爆者援護法即時制定”の署名を依頼し、全国に「基本要求」の内容を知らせるものでした。
 東友会は、都内を8ブロックに分けて「東京行脚」を計画。援護法制定請願署名の目標を100万人分として都民に広げ、首長・議長全員の賛同署名を得ることにしました。
 当時の被爆者の平均年齢は50歳代前半。「動ける人も、病床の人も、高齢者も」と新聞「東友」が呼びかけ、毎月の会議や学習会で「基本要求」の内容を学び、一人ひとりが工夫した活動を広げました。
 新宿区の矢野君子さんは「私は知人が少ないから」と言いながら、いつも署名用紙を持ち歩き、乗り合いバスの乗客に声をかけて署名を集めました。江戸川区の髙木留男さんは、白血病で亡くなった妻への思いを抱いて、被爆者援護法制定の鉢巻きと自作のポスターをつけた画板を持って、あらゆる集会に出かけ、街頭でも訴えました。「御用聞きにきた酒屋さんから署名をもらった」「美容院に署名用紙を置いてもらった」など、次々にニュースが届きました。「自分らしく」という活動が各地で紹介され、励まし合いが広がりました。
 「東京行脚」で各自治体に要請するなかで、自治体側の理解が深まり、区市に被爆者援護を要請する運動も広がりました。東友会を財政的に支えようと、新聞などの発送を担当する「猫の手会」の活動が始まったのもこの時期でした。
 「被爆40年都民運動」開始から半年後の1985年6月までに東友会は、当時の都内65自治体の37首長、25議長の被爆者援護法賛同署名を集めました。被爆者の会のない自治体が多かった多摩地区では、ブロックで相談して車を出して役所を回り、当時の26市のすべての市長の賛同署名を集めました。
 東友会事務局では、様ざまな縁をたどって、黒柳徹子さん、西田敏行さん、滝平二郎さん、加藤剛さんなど176人の著名人から賛同署名を集め、請願部は都内の諸団体を手分けして訪問し、109団体から賛同を得ました。

当時くり広げられたのは自治体訪問ばかりでなく、機会があるごとに街頭で都民に直接訴える行動でした。写真は有楽町での宣伝・署名行動。