「相談電話のこえ」から

2008年「東友」12月号から

厚労省は、なんで1回の照会で済むようにしてくれないのでしょうか。

 広島被爆、85歳、女性。亡くなった夫の原爆症認定申請についての相談。

 夫は2年前の8月に転移性骨腫瘍と肺腫瘍を原爆症と認めてもらいたいと申請し、その年の12月に亡くなりました。死亡診断書の死因は大腸ガンになっていました。
 翌年8月に厚生労働省から申請病名と医師の意見書に書いてある病名が違うと照会がありました。医師の記入した病名には肺腫瘍が書いてなかったので、夫が大腸ガンで亡くなったことを知らせて、医師の記入にあわせて骨腫瘍で申請すると書類に書いて出しました。
 今年5月に二度目の照会が来て、申請していない大腸ガンについての検査結果を出してほしいというので、99年の「病理組織検査報告書」などを出しました。
 すると8月に、死亡診断書を書いた医師に骨腫瘍の検査結果を出すようにいってきたので、その医院では検査をしていないと書いて出すと、11月に、骨腫瘍と診断した病院の検査結果を出すように連絡がありました。
 厚労省からの照会は夫が亡くなってから4回です。私は足が不自由ですから、そのたびにタクシーを使って書類をそろえるので3回分で数万円かかっています。厚労省は、なんで1回の照会で済むようにしてくれないのでしょうか。

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2008年「東友」11月号から

母は「あのときのことは思い出したくない」と怒り、手帳の申請をしません。当時乳児の私は…

 母子3人で広島入市。63歳の娘より被爆者手帳申請について相談。

 原爆投下後、母親が私と姉を連れて広島に行ったそうです。被爆者手帳の申請はできますか。
当時、私はまだ生後9カ月で、何も覚えていません。母が少しだけ聞かせてくれた話では、昭和20年8月7日に、広島が大変なことになっていると聞き、家族の身を心配して、疎開していた大竹から実家のあった己斐町に出かけたそうです。
 私を背負い、一つ年上の姉の手を引いて行ったそうです。母は途中で多くの遺体が横たわっているのを見たそうです。ひどいヤケドを負った母親が赤ん坊に乳を飲ませようとしていた光景を見て、自分も乳飲み子を抱えているのでとてもショックだったといいます。己斐小学校の校庭にたくさんの遺体が置かれていたことも記憶に焼きついているそうです。
 母に当時の話を聞こうとすると、「あのときの光景を思い出す」と、とても感情的になります。私が被爆者手帳の制度を知り、申請したらどうかと勧めたら「思い出したくない。被爆者手帳の申請なんかしないでくれ」と怒り出しました。
姉も「無理をしないほうがよい」と言います。母が拒否していると、私たちは被爆者手帳をとれないのでしょうか。

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2008年「東友」10月号から

娘も結婚し、改めて友人から勧められたこともあって、手帳申請について説明を聞きたくなりました

 74歳、男性。長崎入市被爆。被爆者手帳の申請についての相談。

  原爆投下後、父と爆心地付近まで行きました。証人は一人しかいません。被爆者手帳の申請はできるでしょうか。
  当時10歳だった私は、原爆が落ちたとき佐世保の自宅にいました。“長崎が大変なことになった”と聞き、父と2人で浦上の伯父一家を捜しに市内に向かいました。8月何日だったか、はっきりとは覚えていませんが、長崎から浦上までの列車が動くようになってすぐでした。
浦上駅に駅舎はなく、人もおらず、川に遺体が浮かんでいたのを覚えています。伯父の家は瓦礫の山になっていて、その下から親戚の人たちの遺体を掘り出し、荼毘に付したことを覚えています。
友人・知人から被爆者手帳の申請を勧められたこともありましたが、妻から“娘の結婚にさしつかえるから被爆のことは絶対に話さないでくれ。手帳は取らないで欲しい”と言われていたので申請しませんでした。近所に被爆者の人がいましたが、付き合いを避けるようにしてきました。
私も年を取り、娘も結婚し、改めて友人から勧められたこともあって、手帳申請について説明を聞きたくなりました。証人は伯父一家の中で生き残った従兄弟だけです。

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2008年「東友」9月号から

末期の肺ガンで、手術も放射線療法もできないといわれました。原爆症の認定申請を出したいのですが…

 63歳男性、長崎入市被爆。妻より原爆症認定申請について相談。

 夫が末期の肺ガンで、手術も放射線療法もできないといわれました。原爆症の認定申請を出したいのですが、18日の入市ではむずかしいというのはほんとうですか。
 被爆者手帳には18日入市となっていますが、夫の母親の話では、当時生後10カ月だった夫を背負い原爆投下2、3日後に浦上あたりまで父親を捜しに行ったそうです。母親は早く手帳を取ったのですが、夫は差別されると聞いていて、長い間被爆者であることは話さず、手帳もとりませんでした。私も結婚してからもずっと知りませんでした。
 母親が身体が弱ってきて、今が手帳申請の最後のチャンスと7、8年前にやっととり、腰痛と狭心症で健康管理手当をもらうようになりました。それでもその後も被爆者であることは人には話しませんでした。
 今年3月、血痰が出るようになり病院で検査しましたが、ガンではないといわれました。7月に血痰がひどくなって再び入院・検査。退院する頃になってガン細胞が見つかりました。主治医からは、進行が異常に早く治療が追いつかない、すでにリンパや腹膜にも転移しており抗ガン剤治療しかない、といわれています。

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2008年「東友」8月号から

介護事業所や役所は、同居同然の家族がいるから、床、風呂、トイレの掃除にヘルパーは使えないと…

 75歳、女性、長崎被爆。40歳代の息子から介護についての相談。

母は正常圧水頭症と言う病気で要介護3、他人介護手当(中度)の認定を受け、訪問介護を受けています。私が二世帯住宅で2階に住んでいるものですから、訪問介護の内容に制約を受けています。
私は会社員で独身です。以前婚約していた人がいましたが、彼女の親族から介護が必要な親がいる人と結婚するのは止めろと反対され、破談になりました。
母の病気は症状に波があり、調子が良いときは自分の身の回りのこともできますが、すぐに調子が悪くなり、動けなくなって認知症の症状も出ます。失禁もあります。
しかし、介護事業所や役所からは、同居同然の家族がいるから、床、風呂、トイレの掃除にヘルパーは使えないといわれています。
私は朝7時ごろ出かけ、帰宅は午後8時から9時ごろになり、その間、母は一人です。帰ってから同行して外出し散歩させます。夜中の2時から3時ごろの間にトイレをさせ、水分補給をして休ませます。その合間に掃除や洗濯をします。
この2、3年は自分のために休みを使ったことはありません。身も心も疲れ切っています。何とかならないでしょうか。

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2008年「東友」7月号から

独り暮らしで胃ガンもあり、ときどき訪問してお世話してきました。しばらく連絡がないので訪問すると…

 75歳男性。長崎被爆。ガンの末期となった独り暮らしの被爆者について地区相談員から。

 会の活動に参加してくれる明るいいい人です。でも、胃ガンが手術ができないほど広がっていて独り暮らしなので、私たちがときどき訪問してお世話してきました。しばらく連絡がないので訪問したら、飲まず食わずで窓もカーテンも閉め切って寝ていました。
 このままでは危ないと思って、介護支援センターに連絡して、緊急入院にしてもらいました。医師は、もう長くないと言っています。入院後は、食べ物はすべて吐いてしまうので、点滴で栄養と水分を入れて生きています。
 こんな状態なので介護支援センターから長崎のお兄さんに連絡してもらいましたが、「63年間も連絡がなかった弟とはいっさい関わり合わない」と言われたそうです。
 いま預金の管理などは社会福祉協議会に頼んでいます。社協の担当者は「本人の意志が確認できないと通帳や印鑑を返せない」と言います。
 入院後に吐血して、輸血を受けるようになりました。入るお墓がなくて、そのことなどを東友会と私たちに頼みたいそうです。東友会なら弁護士さんに頼んで、もしものことがあった後も、きちんと対応してくれると思うのですが…。

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2008年「東友」6月号から

30歳代で乳房を失った私の苦しみと、それが原爆のせいであることを、どうしても国に認めてほしい

 72歳女性。長崎被爆。原爆症認定についての相談。

 私は、38歳のとき乳ガンの手術を受け、左の乳房のすべてを切除しました。この手術の6カ月後ころから傷の下にかなりの量の血液がたまり、1カ月入院して血液を抜きました。その後も出血が止まらず苦しみました。翌年には乳ガンが再発して再手術しました。
 今、私の左胸は皮膚の下は肋骨という状態です。傷痕のひきつれも大きく残っています。先月からこの左胸の傷痕から液体が流れ出して、治療を受けています。
 2度目の手術を受けたとき、主治医に原爆症認定制度のことを話しましたが、診断書を書いてもらえなかったので諦めてきました。仙台高裁の判決で、26年前に手術した胃ガンの後遺症に苦しんでいる方が認定されたことを知りました。
 若い時代に出たガンほど放射線の影響が強いと思います。30歳代で乳房を失った私の苦しみと、それが原爆のせいであることを、どうしても国に認めてほしいと思います。

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2008年「東友」5月号から

目に焼きついた惨状、被爆者は子どもに影響があるという噂。若かった私は「手帳などいらない」と…

 72歳男性。広島入市被爆。被爆者手帳申請の相談。

 私は両親とともに、大けがをした兄を連れ戻すため、8月7日に疎開先から入市。横川、十日市、紙屋町を通過し宇品の自宅に着きました。
 昭和42年、母が被爆者手帳を申請するとき「一緒にするか」と連絡をくれました。当時、私は東京に就職しており、この誘いは断りました。市内に入ったときの惨状が目に焼き付いていましたし、被爆者は子どもに影響があるという噂もあり、若かった私は「手帳などいらない」と断りました。
 妻と出会ったときには、子どもに障害が出るのではないかと、結婚するか長く悩みました。
 年をとってきて身体に不安を感じるようになり、友人からの勧めもあり、今回被爆者手帳を申請しようと思いました。母の申請書を取り寄せましたが、キッパリ断ったためか私のことは書いてありませんでした。父は手帳の申請はしませんでした。父母も、入市のとき同行してくれた父の知人もすでに亡くなっています。
 疎開先の知り合いで、私たち親子が6日の夜、兄の救援のため広島に向かい、9日に大けがをした兄を連れて返ってきたことを証言してくれる人は2人います。これで、手帳は認められるでしょうか。

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2008年「東友」4月号から

卵巣ガンと子宮ガンにかかったとき、今の基準だったら、私も認定されていたのだと思うと…

 83歳女性。長崎被爆。原爆症認定の相談。

 原爆症の認定を受けたいと思います。保健所で書類をもらいましたが、書き方がよくわからないので電話をしました。
 私は長崎市平戸小屋町、2.5キロの地点にあった会社で被爆しました。被爆後は、連絡船が止まってしまったので、私は同僚たちと稲佐橋を渡って、対岸の自宅に戻りました。
 でも、大橋の三菱兵器に勤務していた兄は、戻ってきませんでした。私は母と、中心地への立ち入りが許された11日から毎日、8月末頃まで兄を捜しました。でも兄は、今も行方不明のままです。兄を捜して遺体を確かめたり、末期の水をあげたりしたことが、その後の私と母の人生を狂わせました。
 私は6年後に結核にかかり7年間入院。その後、卵巣ガンと子宮ガンなどの手術を受けました。生命は助かりましたが、そのときの輸血が原因でC型肝炎にかかり、いまは肝硬変だと言われています。最近は、口の中にガンができ、肺にもガンがみつかりました。
 卵巣ガンと子宮ガンにかかったとき、育ち盛りの子どもがいたのに長く入院しなければならず、働くこともできず、経済的にとても困りました。そのとき今の基準だったら、私も認定されていたのだと思うと、なさけない気持ちです。

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2008年「東友」3月号から

当時まだ被爆者に対する偏見があり、結婚に差し支えるからと手帳を申請しませんでしたが…

 71歳女性。広島入市被爆。被爆者手帳の申請についての相談。

 両親と兄、姉、弟は被爆者手帳を持っていますが、私だけ持っていません。
 当時8歳9カ月だった私は、叔父の家に1人で疎開していました。8月10日に芸備線に乗り広島駅で下車。そこから猿猴橋、荒神町、大正橋と歩き、段原末広町の実家に帰りました。兄は学徒動員中に原爆をうけ大火傷。家は住める状態ではなく、安佐郡中深川の叔父の家に11月上旬頃まで世話になり、私は兄のトイレや食事、身体にわくウジをとるなどの看病をしました。私はその頃から脱毛、吐き気、下痢が続き身体中に発疹も出るようになり、このような症状は小学校卒業まで続きました。
 被爆者手帳の制度ができ、家族はみんな申請しましたが、当時まだ被爆者に対する偏見があったので、結婚に差し支えるからと私だけは申請しませんでした。その後、結婚して長男が生まれましたが、今度はこの子が被爆二世として差別されるのではないかと思い、手帳はもらいませんでした。
 昭和39年から甲状腺の異常で4回入院。その後も手術や入院治療の連続でした。今回、主治医や家族の勧めもあり被爆者手帳の申請をしたいと思います。

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2008年「東友」2月号から

20年も病気が続き、転移でない3種類のガンにかかって苦しむ父。原因は原爆以外に考えられません。

 78歳男性。広島被爆。同居の子どもから原爆症認定についての相談。

 4キロでは原爆症認定は受けられないのですか。父は8年前に大腸ガン、6年前に胃ガンの手術を受けました。今度は喉頭ガンが見つかり、3月に手術を受けます。今度の手術では声帯をとらなければならないといわれています。
 父の被爆した場所は、広島市南観音町です。父は被爆者手帳を申請したとき、記憶で被爆距離を「4キロ」と書いてしまったようですが、実際は4キロも離れてないと話しています。
 20年間も病気が続き、さらに3種類の別々のガンにかかって苦しんでいる父の姿を見て、何か制度がないかと思いましたが、原爆症認定は近距離被爆でないとダメだと聞いてあきらめてきました。
 こんなに続いてガンになった原因は、原爆以外に考えられません。今回みなさんのお力で新しい基準ができることを知り、申請をきっかけに、父と会話ができるうちに父の被爆のことを聞いて私の記憶に残し、次の世代に伝えていかなければならないと思っています。

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2008年「東友」1月号から

いま頃になって手帳を申請したのは、息子の病気に対して「罪の意識」を感じたからです…

 78歳男性。広島被爆。入院中の子どもの医療費助成についての相談。

 被爆者手帳の申請が認められて、都庁から手帳を受け取りました。
 いま頃になって手帳を申請したのは、息子の病気に対して「罪の意識」を感じたからです。
 息子は半年前から白血病の治療のため入院しています。このまま私が手帳を申請しなければ、私が被爆した事実も消えてしまうと感じたからです。
 私は近距離で被爆して耳が溶けるほどの重いヤケドを受けた兄を見ていて、「後から広島に入った程度で申請しては申し訳ない」と思い、被爆者手帳を申請していませんでした。しかし、息子の病気に直面して、列車を降りて広島の町を歩きまわったことが、この病気の原因になっているかも知れないと感じ、申請を決意しました。
 さいわいに中学時代の友人が証人になってくれ、都庁のご担当からも、たいへんに親切にしていただいて、思っていたより簡単に、早く手帳を受けることができました。
 被爆二世の医療費助成の申請書類は東京都からいただきましたので、書類が整いましたら東友会を通じて出していただくよう、息子の妻に連絡しておきます。
 私の健康管理手当の申請についても、お世話になりたいと思います。

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