「相談電話のこえ」から

2001年「東友」12月号から

乳ガンを原爆症と認定してください

 女性70歳。長崎市大橋・三菱兵器で直接被爆。8月に乳ガンを手術。原爆症認定申請の申述から。

 原爆投下のとき屋外にいた私は、爆風と建物などの破片を全身に受け、後頭部や右足首から血が吹き出ていました。
 あたり一面は焼け野原になり、ヤケドや大ケガをした人ばかり、黒こげの死体がごろごろ転がっていました。私は山へ逃げました。
 途中で力尽きて歩けなくなった人が大勢いました。でも、どうすることもできず、ただひたすら逃げました。 とてもつらく、悲しいできごとでした。 大村海軍病院に行く汽車に乗るために線路に向かうときも、途中で倒れる人が大勢いましたが、何もできませんでした。 夜遅くなってから乗車できた列車の車内は血とヤケドから浸みだした体液の海で、それは凄惨な状態でした。一晩かかって着いた海軍病院も、地獄のようでした。
 九月に入ってから、高熱が出て、嘔吐をくり返し、歯茎からも出血しました。具合の悪い私をお風呂に入れながら、紫斑がたくさん出ていると母が泣いていました。 その後も、被爆者の病気の話を聞くたびに、今度は私の番ではないかと不安でした。ですから、被爆者であることは、ずっと隠してきました。
 20歳をすぎてからは、10年ごとに、甲状腺や乳腺の病気にかかり、今年は左乳ガンの手術を受けました。私がこんな病気にかかったのは、原爆を受けたためだと思います。

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2001年「東友」11月号から

妻と2人暮らし、2人とも病気に。介護の制度はよくわからない…

 男性73歳。長崎市銭座町に入市被爆。白内障で視力低下、難聴。健康管理手当・家族介護手当受給中。妻と二人暮らし。

 「肝硬変の治療を受けながら私を介護してくれていた妻が、精密検査の結果、乳ガンと子宮ガンの疑いが強いと診断されました」
 「その後、妻は気が狂ったようになったり、ふさぎ込んで、家事はおろか自分の身の回りのこともしなくなりました。妻は被爆していません」
 「私は、白内障と緑内障のため昼間でも信号が見えないし、難聴もひどく一人で外出できません。 曇りの日や夜は、文字が読めませんので、とても一人で生活することはできません」
 「去年の二月に胃ガンの手術を受けました。食事もだいぶ食べられるようになって、順調に回復していると思っていた矢先でした」
 「膵臓に影が出ていると言われ、九月に精密検査を受けたら、膵臓にガンが転移していることがわかりました」
 「もう手術はできないそうで、10月に2週間入院して抗ガン剤の点滴を受けました」
 「この点滴を受けると、辛くて気力も体力もなくなって、退院した後でも、しばらくは何もできませんので、介護保険を申請しました」
 「先日、区から『要介護2』という通知がきました。ケアマネージャーが明後日来てくれますが、被爆者のことは何もご存じないようです。払い戻しの申請も私や妻では書けませんし、どうしたらいいのでしょうか」

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2001年「東友」10月号から

病気は悪くなっているのに対象外と言われ…

 女性81歳。広島市江波(えば)で被爆。手帳は入市で交付。10年間、循環器機能障害で健康管理手当を受給。今回の更新申請で却下。

 健康管理手当の更新を出したら、東京都から『この疾病は健康管理手当の対象外であるため、認定することはできません』という手紙が来ました。先生は、病気は悪くなっていると言われているのに、どうしてでしょうか。
 病名は、大動脈弁下狭窄症、早期興奮症候群です。今まで認められた診断書と同じことを書いてあったかどうかわかりませんが、20年もかかっていて、2週間に一度は通院してお薬をいただいている同じ先生の診断書なんですが。

――後日――
 私の病名が、手当の対象となっている心臓の病気より重症でも、対象外なら仕方ありません。でも今までこれで受けられたのはどうしてでしょうか。規準が変わったのでしょうか。ご紹介いただいた東友会の顧問医の診察を受けました。被爆者健康診断をずっと受けていなかったので、先生に勧められた健診を受けました。
 考えてみたら、ガン検診なんて受けたことありませんし、心臓以外の病気が出ているかもしれないのですから、健康診断は大事ですよね。今週の土曜日には結果をうかがえるそうですから、異常がなければ安心できます。私の話をとてもよく聞いていただけて、きびきびしていて、感じのいいお医者様をご紹介いただいて感謝しています。手当の方も、腰の方で書いていただけるとのお話でした。

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2001年「東友」9月号から

乳ガンが原爆と無関係といいはる医師

 女性57歳。長崎市昭和町1.8キロで直接被爆。乳ガンと転移性肺ガンが発見され去年の4月に手術。今年4カ月間6回の抗ガン剤治療を受けたあと、原爆症の認定申請を希望して相談継続。

 つらい抗ガン剤の治療がやっと終わった頃から、異様な咳が出るようになりました。この咳はもう三カ月もつづいています。胸が痛むのは、肺だけでなく、ガンが骨にも転移しているためだと聞きました。
 1歳で被爆して、何も覚えていない原爆の影響に、ずっと不安を持ってきたのに、主治医が書いた『意見書』には、『原子爆弾や放射能との因果関係は無いと考えられる』と書いてあります。これではダメでしょ。国立のガン専門病院の診断ですから。あなたのお手紙を先生に渡しました。さっと目を通されて、『心配することはないよ』って言われて。もっとはっきり『乳ガンは原爆とは無関係』と書かれてしまいました。その後、先生にお電話していただいた結果はどうだったんでしょうか。えっ、『上司と相談して、病院の正式な判断として、原爆放射線とは無関係だという結論がでた。そのため、検査データなどを出す必要性もないと考える』というお話なんですか。主治医は医長先生なんですよ。
 あなたはお手紙に、厚生労働省が新しく出した『原因確率』という基準で、私は50%から33%になるから、認められるだろうと、書いてくださいましたけど、厚生労働省の基準を国立病院は知らないのでしょうか。あなたのお奨めのとおり、とにかく申請は出すことにします。

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2001年「東友」8月号から

広島に帰ってみたいが思い出したくない

 男性83歳。広島市千田町(せんだまち)1.5キロで直接被爆。1995年肝臓ガンで原爆症認定申請を行ったが却下され、異議申し立てを出したが、厚生労働省は6年近く放置。今年(2001年)8月6日の広島市の式典に、東京都在住の遺族代表として参加予定だったが、健康状態が悪化し参列できず。
 もう3日も食べていないんだよ。体が食べ物を受け付けないんだ。広島の式典はしあさってになったけど…。56年ぶりに帰ってみたい、だけど思い出したくないって、考えこんじゃって…。広島行きはやめるよ。
 青梅広長会の事務局長さんが広島に一緒に行ってくれることになっていたし、車椅子も頼んでもらってたんだけど…。すみません…。
 「原爆のとき、俺だけ外で大家の建物疎開を手伝っていたんで、ひどい火傷になってね。火傷が治るのに1年以上かかったし、ずっとだるくて働けないし、大変だった。戦争が終わって、韓国に帰れる最後の船が出るって言われたとき、家族も俺の奥さんも、兄弟たちも、みんな帰ったんだ。でも俺は1人残ったんだよ。何度か帰ろうかって思ったこともあったけど、具合が悪くて働けないし。日本に居れば被爆者手帳で病院はタダだし手当も出るけど、韓国じゃ生きてけない。それで残ったんだよ。しかたないね。「さびしいし不安だけど、しょうがないね。長広会の人が親切にしてくれるから。大丈夫だよ」

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2001年「東友」7月号から

生活に追われ医者に行けず…

 女性58歳。長崎市飽の浦(あくのうら)で被爆。運動器機能障害で健康管理手当受給。康管理手当更新にあたっての相談。

 東友会のお世話になりまして、健康管理手当を5年間受けてきました。5年前は子どもが2人とも高校生で、親子3人、私のパートの仕事だけで暮らしてましたので、大変で…。この手当には本当に助けていただいたんです。そういうこともあって、息子は『やっぱり福祉は大切だね』なんて言って、今は特別養護老人ホームで働いていますし、ええ、介護士なんです。娘も看護婦をめざしていまして、今必死で勉強中なんです。
 あのとき東友会に手当のことを教えていただいたことが、子供たちが医療や福祉の方に進むきっかけになったんです。ありがとうございます。
 でも、今度の(健康管理手当の)更新はできそうにありません。先生は5年前と同じように、診断書に『近医で治療中』って書いてくださったんですけど…。毎日の生活で手一杯で、病院に行けなくって、腰や膝は痛かったんですけど、近所の薬局で売ってる湿布とかお薬とかで、自分でやってきてしまって、先生にもその事は言わなかったものですから…。そうしたら、都庁から、『かかりつけの医師に治療状況を書いてもらってください』って連絡が来たんです。医者にはかかってないんですから、書いてもらいようがありませんから、もう手当はダメですよね。しょうがないんですけどね。でも、物ごころついたときから、いつも原爆の影響を心配してきて…、離婚の原因だって結局は原爆のことだったんですよ。原爆でこんなに苦労させられてきてね、手当ぐらい、って言うと変ですけど、それぐらい受けても良いんじゃないかな、って、思うんです。

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2001年「東友」6月号から

ガンになったが被爆時の証人が居ないので…

 女性66歳。長崎市城山町(しろやままち)で直接被爆。証人が居ないため入市で手帳を取得。昨年胃ガンの手術を受けた。

 東京から縁故疎開で伯父のいる長崎に行ったんです。伯父の家で被爆しました。たまたま防空壕の前で遊んでたんです。光を感じてすぐ飛び込んだんで、だから助かったんだと思います。伯父一家はほとんど即死で、全滅でした。今でも伯母のほんとに無惨な死体を忘れられないです。10歳で、よく知らない町で、1人だけになってしまって…。とにかく駅に行けば、父や母のところに帰れる、って思いまして…めちゃめちゃになった列車の脇や焦げた死体の中を歩きました。浦上(うらかみ)のあたりで、知らない人に助けてもらって、一週間後に父が迎えに来てくれるまでその人にお世話になったんです。
 その後、その方もそのご家族も原爆症で亡くなられて、城山町の近所の人もほとんど亡くなられて、証人になってくれる人が居なくて…。18日に入市したことにして手帳を受けたんです。原爆の直後から、髪の毛が全部抜けて、貧血もひどくて、戦後ずっと貧血で…大変でした。胃ガンになっても、入市では原爆症の認定は難しいと聞きましたが…私のような者は被爆状況をどう書けばいいんでしょうか。

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2001年「東友」5月号から

ときおり精神が不安定になり、吐いたり、お腹が痛いといってあぶら汗を流して苦しむ母

 娘からの相談。(母《79歳》は広島市の爆心地から2キロの場所で直接被爆。)父も娘も被爆者。

 父だけでなく、母の手当も増やせるのですか。ありがとうございます。ええ、いま母が受けているのは保健手当だと思います。17,000円くらいの手当です。ありがとうございます。父の介護手当だけでもたいへんに助かりますのに、母の手当が倍になるんですか。母にはぜひ、そういう手当を受けさせてあげたいと思います。
 母は、2、3カ月に1回くらい、吐いたり、お腹が痛いといってすごく苦しんできたんです。あぶら汗を流して苦しむんです。何度かお医者様に診てもらいましたが、原因がわからず、精神的なものだと言われました。そんな状態が40年間くらい続きました。母が言うには原爆のことを思い出して、そうなるんだそうです。精神が不安定になって、何日もそういう状態が続いて、苦しみました。
 私が小学生の頃、やはりそういう状態になって、母も父も私も、いつもの病気が出たと思って普通に仕事や学校に行っていました。3日目頃になって、母が『いつもとは違うから救急車を呼んでほしい』と言いました。病院に着くと、お医者様が顔色を変えて、『これは腸捻転だ。すぐに手術しないと助からない。何で放って置いたのか』と言われました。手術室でお腹を開けると、血が天井まで吹き上がったそうです。腸捻転というのは、普通我慢できる痛みではないそうですね。そんなになっているのに、本人も家族も“いつもの病気だ”と思ったほど、母の精神的な苦しみは激しかったんです。トラウマ(心的外傷)とかって今は言いますけど、被爆は心にも大きな傷をつけてると思っています。

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2001年「東友」4月号から

親らしいことをできなかった報い

 女性90歳。広島市紙屋町(かみやちょう)に入市被爆。特別養護老人ホームに入居中。

 広島に原爆が投下された当日、親戚の安否を確かめに、中心部の紙屋町に入りました。その後、熱が出て、髪の毛が抜けて…。貧血も続いて、それから16年くらいは、食事も枕元に運んでもらうような生活でした。
 主人は被爆しなかったんですが、重い結核にかかって、戦後すぐに亡くなりました…。子ども4人抱えて、収入がなくって、おむつが汚れても替えが無かったんです。ひどい生活でした。見かねた実家の兄が、家財や田畑を売って生活費を送ってくれましたけど、それで実家は破産しました。
 90歳まで生き延びられるなんて、思いもしませんでした。でも、老人ホームに入れられてしまって…。子どもが、一番親を必要としてる時期に、原爆症で寝たきりで、何一つ親らしいことをしてやれなかったんですから。報いでしょうね。原爆さえ受けなかったら子どもに見捨てられることはなかったのにと思います。
 戦争は、原爆は、絶対いけないです。何としても平和が大事です。私は歳で何もできませんから、それだけを祈って、毎日毎日、50回お経を唱えています。

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2001年「東友」3月号から

都営住宅の家賃減免がなくなる

 女性72歳。広島市下流川(しもながれかわ:爆心地から0.9キロ)で直接被爆。健康管理手当受給者。都営住宅で独居。

 ごぶさたしています。いつも、相談があるときだけ電話して、ごめんなさい。都営住宅の家賃のことで困り果ててしまって、お電話しました。あなたのお陰で、今までは減免が認められていて、共益費だけ払えばよくて安心だったのに…。今年の秋から家賃の減免がなくなるっていう知らせがきて、不安で不安で…。私の収入は月にすると7万円の年金と健康管理手当だけでしょ。家賃をとられたら、とても生活していけません。
 生活保護は受けません。前に受けていたとき、『なんで働けないの』とか『お子さんは面倒見てくれないの』、『あなたは被爆者だそうですね』とか…いろいろ言われて、のぞかれて、とても傷つけられました。
 被爆後はずっとブラブラ病が続いて、体も精神的にも具合が悪かったんですが、事情があって女手一つで子どもを育てました。まともに働けなかったので年金は少ないし、子どもたちだって自立はしましたけど、ギリギリの生活です。とても面倒みてくれなんて言えません。どうしたらいいんでしょう…。

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2001年「東友」2月号から

女房は原爆に殺されたんだと思う

 男性。妻が被爆者。妻は長崎市岩川町(いわかわまち:爆心地から1キロ)に8月10日入市し、被爆。2001年1月27日に右肺ガンで死去(享年56歳)。

 あんた、あの手続きはどうなったんだよ。女房が、昨日死んだよ。あと1日生きてたら57歳の誕生日だったのに…。まだ結婚してない27の娘と26の息子残して、逝っちまったよ。娘も息子も、原爆が、ガンが怖いから結婚しないなんて言うし…。
 死亡診断書には死因が右肺ガンって書いてあるけどね、俺は、妻は原爆に殺されたんだと思うよ。なのに、国だって区だって、何にも助けちゃくれなかった。ともかく、まだ50歳代だっていうのに3つのガンがいきなり出てきたんだからね。4年前の11月に甲状腺ガンと乳ガンの手術を受けて、12月には肺ガンの手術なんて、聞いたことがないって医者も言ってた。
 赤ん坊のときに、母親に背負われて長崎市内に入ったらしいけど…放射能が渦巻いてるって知ってりゃ、赤ん坊なんて連れてかなかったろうけどね…。
 初めて電話したとき(2000年の暮れ)は、医者から『あと1カ月の命だ』って言われた直後だった。そのとき、もう、あいつはガンが脳に転移して、目が見えなくなって、ぼーっとした顔で『家に帰りたい』ってつぶやいてて…。かわいそうで、かわいそうで…。
 最後の願いは叶えてやりたいって思って、家で介護することにしたけど、『介護保険でベッドが借りられないか』って区に聞いても、『歳が56で、病名がガンでは、何も使えない』って、つっぱねられてね。それであんたに聞いた『被爆者の介護手当』とかいうのを申請したら、東京都から、なんだか追加の書類を出すように通知が来たんだよ。
 女房は申請したときには生きてたんだ。介護を受けてたんだ。家にいた一カ月分だけしか出なくても、原爆で女房は殺されたんだから、それくらいもらっても当たり前だろう。

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